季節の薫り![町田/相模原]


かたくなにさえならなければ、無条件にわれわれを癒してくれるであろう自然環境!

遠出をしなくても、町田/相模原には絵になる、写真になる自然風景がありそうだ・・・



この小さな芸人は、文字通りの拍手喝采を独り占めにしていた!

人々は、そしてわたしも、この一年、拍手を送るべき対象を失ったままであったこともあり、ここ一番のあらん限りの拍手を送ったのだった。

時は師走、ところはJR町田駅前のロータリー。最近ここでは、様々なストリート・パフォーマンスが展開されているという。

急ぎの買い物に出かけたわたしだったが、時ならぬどよめきに引き寄せられ、しばし興奮と感動の渦(?)に巻き込まれてしまったのだった。

振り返れば、「平成」の文字を額に貼り付けたリーダーの下で、なんと白けた苦しい一年であったことだろう。この小さな芸人のように、もっとしっかりと前方を見つめてもらいたいものだ・・・・・

みなさん、良い年をお迎えください! (1999.師走)



やはり、樹木に加えて水=池があると俄然、趣が異なってくるもの。
夕食の膳にさりげなく添えられたお銚子の存在感に匹敵する。

薬師池公園は、その点でパーフェクトに近い構成だと言える。

なんせ「かわせみ」が気に入って飛来するくらいなのだから。

この時季、水面にゆらぐ姿とあいまって、紅葉が目を引く。




紅葉とは別に、既に葉を落としきった落葉樹も悪くない。

なにやら、リストラし切って厳しさに立ち向かう企業のようでもあって、その毅然とした風情に共感できる。

時期がくれば、やがて芽吹くに違いないそのエネルギーを潜在させているに違いない。




風雪に耐えて聳え立つ銀杏の樹は、何にも増して見応え感がある。

落葉によって地面を黄金色でうめ尽くすまでの華やかさはすばらしい。

この銀杏の樹の大枝には、野生の鳩たちが結集しており、秋の木洩れ日の懐でうたた寝したりしている。

手前に見える太鼓橋の付近には、数十センチの鯉や亀がたむろし、子供たちが投げ与える餌を待ち構えていたりする。なかなか餌にありつけないひ弱な鯉が衆目を集め、サポーターが付いたりするのがここでの慣しなのだ。




銀杏の樹の木陰は、明るさもほどほどで、秋の日にはありがたい。

木陰越しに、輝く池の水面がのぞく風情は清涼感があって心地よい。

日曜画家さんが絵筆をとったりしている。うまい、へたはどうでも良いのです。自己満足したものが勝ち組なのです。(私の撮影みたいに・・・)



秋の日の自然公園の空には、謙虚な雲が流れていたりする。

夏の日のエネルギッシュな存在感ではなく、頼りなくかわいい印象がふさわしいのかもしれない。

秋の自然たちは、万事が一歩二歩退き、控え目に振舞っているようにも思える。

たぶん、過酷な冬を察知して備えを打つ賢者の深知恵なのだろう。



秋空の雲を背景とした前景には、たっぷりとした歴史を吸い込んだ藁葺屋根がよく似合う。

それを知ってか、先日は池の上を飛び交うはずのコバルト・ブルーの「かわせみ」が、それもつがいでこの屋根の上で戯れていたものだ。

この公園には、藁葺屋根の古い屋敷が二軒保存されているが、どちらも風景と溶け合っていて好感が持てる。

建物に入ると、それ相応の世代の人なら遠い過去を呼び起こされる香りにであったりする。



ここは、忠生公園裏に新しくできた谷の地形を生かした自然公園だ。
長い間ここは、開発から見放されたかのように手付かずの自然が残されていたように覚えている。

昔、子供といっしょにザリガニや、おたまじゃくしを探しに来たことを思い出したりする。

先日撮影に訪れた際、カメラの前方20〜30メーター先を一匹のリスが横切って走り去ったのが目撃できた。生かされているリスを見たのだ。

それにしても、自然とはいうものの、善意の人々の意思によって「保護された」自然なのだからそのことを勘違いしてはいけないのだと、ふっと実感したものだ。



「戦車道路」は、あでやかな桜並木の春も良いが、穏やかな木洩れ日に包まれた散策道に落ち葉が敷き詰められる秋もすばらしい。

かつてここは、軍が戦車をテスト走行させるために設定した道路であったところから「戦車道路」との名がついているという。

今は、戦車ではなく、黙々とジョギングをする人たちが走り去ってゆく。戦車のように真剣に走らなくても良いように思うが・・・



「戦車道路」の秋を彩る植物としては、コスモスが名高い。

知る人ぞ知る人たちが、この時季には三脚を立てに来るのだ。

散策道路の沿道には、延々と清楚なコスモスたちが随伴してくれる。

かつて、「宇宙」と書いて「コスモ」と読ませる名を自分の子供に付けた知人のいたことを何気なく想い起こしたりした。



「小山田」方面には、農業風景がしっかりと残されているようだ。

幼い頃、田畑を走り回り、通学途中で農業風景を脳裏に刻み付けたものにとっては、四季折々の農作業風景がやはりひとつの原像なのだろうか。

幼い頃の記憶の藁干しは、この写真のようなアザラシたちのようではなく、五重塔のような塔のかたちで積み上げていたはずだった。

かくれんぼをして、藁の塔の陰に隠れながら、秋の陽をたっぷりと吸い込んだ藁の香りに酔ったことがあったかもしれない。

想えば当時は、言うまでもなく人生の何たらかんたらを四の五の考えもせず、自然をはじめとしたわが身に触れる環境を、五感そのものだけで対処していたに違いない。



「小山田」に「大泉寺」という中世の頃からのお寺がある。

寺院の建物はなんにせよ興味深いものだが、この大泉寺の山門からは妙な感銘を受けてしまった。

圧倒するほどの規模ではなく程良い大きさであること、にもかかわらず造りが本格的であり手を抜いたといった箇所が見受けられない点、いたんではいないが、かといってただただ安っぽくするような浮いた修復がないことなどがあいまってうなずかせるに至ったのかもしれない。

休日でありながら、周囲に誰一人なくこの情景を独占できたこともあってか感銘はより深まったのだった。

移ろい易い時流のすべてに抗して、いやそれはそれとして許容しているのだろうか、すっきりとして毅然と立つその姿に感動したのだった。

この山門を人に置き換えたとして、そんな人と出会えたらさらにどんなおおきな感銘を受けるのだろうか・・・



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