地球温暖化現象のために、極北のシロクマたちも大いに被害を被っているという。海が氷結しなければ、氷上を渡ってアザラシなどが泳ぐ海に出られず、そのため獲物を得ることができず、飢えに苦しむことになるのだという。最近は、こうした事情を伝えるTVドキュメンタリーもしばしば見かけるようになってきた。
通常500キロはあるという大人のシロクマたちが、哀れにも100キロ台の飢餓状態で陸地地域を彷徨ったり、挙句には人里に近づく危険まで冒すらしい。
人里に近づいたシロクマたちは、野生動物保護員たちに捕獲され保護管理されることになるらしいが、その際、どんなに弱っていても、人間からの餌付けは "ご法度" となっているという。捕獲と保護の目的は、人里での事故を防ぐことと、海が氷結した時に氷上へとリリースしてやること以外ではないのだという。
人間からの餌付けに手を染めると、それに味をしめ彼らに人里に近づく習性ができてしまうことや、彼ら自体から "野生" が失われてしまうのだと言う。もちろん、前者も恐ろしいことではあるが、野生動物保護員たちが、しっかりと後者の問題性をも見つめていることが頼もしいと思えた。野生動物たちが、その "野生" を放棄したり、失ったりするということは、結局、遅かれ早かれ絶滅への道を急ぐことになるのであろう。
そして、それはまた、その周囲の "生態系" を突き崩して行くことに直結して、より大きな自然環境のバランス破壊をも促進させることになるものと思われる。
こうした生態系のメカニズムについては、これまでにも多くが語られてきたところだ。しかし、ここに来て地球温暖化現象の加速などによって、いよいよシリアスな様相を呈してきたのが現状なのかと思われる。
ところで、上記の、人間からの餌付けによって野生動物たちが "野生" を失うという事情を再認識してみた時、妙なアナロジーになってしまうが、現代人たちが、好ましくない "餌付け" 的な文化や風潮によって、いわば "腑抜け" な生きざまになって行くというようなことを感じたのである。いくら何でも "野生" を失うという表現はおかしいということになろう。
特にこの文脈で想起したことというのは、日常生活における "危機意識" の欠落だと言えるのかもしれない。 "平和ボケ" という表現は好まないが、それにしても、政治・経済をはじめとした日常生活環境の安逸さがことさら "演出" され続けてきたことによってか、いろいろな意味での "危機" に立ち向かう毅然としたスタンスが希薄になっていそうだと感じるのである。いや、まずは自身のことだと言っておくべきなのではあろう......。
今、時代環境は、さまざまな意味合いでの "行き詰まり状況" に直面している。これまでの、概して "右肩上がり" のなだらかなスロープ的景観は嘘のようになってしまった。そして、こんな "危機" 的状況の中では、 "危機意識" というか、 "危機対応力" というか、 "野生" にも似たそんなものを内に秘め続けてきた者たちだけがしたたかに生き続けるのではないかと予感する。
今必要とされているのは、鋭利で奇麗事のパワーであるよりも、その多くの部分を忍耐力で構成した "野生" 的な生命力であるのかもしれない。何によらず "システム" が事を運ぶものと錯覚する者たちがいち早く散逸するのであろうか...... (2008.03.31)
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