やはり、 "生命" や "死" に関する教育に徹底的なメスを入れてゆかなければいけない。この現状はあまりにも悲惨過ぎる。多分、人間の文化にとってのエッセンスであるはずの、 "生命" や "死" に対する基本的な感性メカニズムとでも呼べるものが社会的に、時代的に破壊され尽くそうとしているのではなかろうか。
"殺すのは誰でも良かった" という感性が頻繁に立ち上がってきたり、また、あまりにも唐突に "自死" を選びとってしまうような風潮が、若年世代や子どもたちにまで浸透しているかに見える現代は、何はさておいても強く警戒されなければいけない。
こんな当たり前の事実を再確認しなければならないところに、この時代の最大の "誤り" があるのだと先ずは決めつけておきたい。
昨日、 "小学6年" の子どもの事件に目を向けたのには、ヘンな表現だがまだ多少の "余裕" がなくもなかった。しかし、今日伝えられた事件は、何と痛ましいことか。まさに絶句してしまうような悲惨さである。
<卒業式、「大好き」「大嫌い」言い違う? 小6飛び降り>( asahi.com 2008年03月26日 )として報道されている事件である。
<......同校の校長によると、卒業式の「門出のことば」で、男児が「大好きな(○○小学校)」と言うところを、「大嫌いな」と言ってしまった。式後、校長が「何であんなことを言ってしまったの」と尋ねると、「緊張していて間違ってしまった」と答えたという。校長は「しかってはいない。男児は成績や交友関係は良好で、いじめの認識もない」としている>(前述同)
ここで、事実の詳細は不明であるし、同校長を責める気にはなれない。校長ならずとも、そうしたハプニングを訝しく思い、質問してみるのは、言ってみれば自然な対応だったかと思う。
やはり、問題は、子どもの思考や感性、そして判断において、あまりにも短絡的に "死" への行動が選び取られてしまった、ということであろう。 "死" への行動を阻む壁があまりにも脆弱過ぎたということではなかろうか。
この点は、その子どもの周囲の誰がどうだというような簡単な責任問題に還元できるものではなさそうだ。ざっくり言えば、現在の初等教育にしわ寄せを喰らわせている時代と社会全体の問題なのだと言わざるを得ないのではなかろうか。
かわいそうでならないその "小学6年" の子が、果たして次の言葉を知っていたかどうかはわからない。が、知っていて欲しかったと悔やまざるを得ない。
「命あっての物種」(すべてのことは命があるからこそできるので、死んでしまってはどうにもならない。だから、命にかかわるような危険なことはなるべく避けて自重せよということ。――学研故事ことわざ辞典)
現在の小学生(中高生)たちに何としても教えなければならないのは、この一事に尽きるのかもしれない...... (2008.03.26)
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