陽気は春めいて来たものの、気分は冴えず。
出勤前に医者に寄って診てもらい念のためレントゲン写真まで撮ってもらったところ、風邪が嵩じて "気管支炎" へと進行しているとのこであった。とにかく咳がひどく、微熱、全身倦怠感、頭が重い等の症状を自覚している。タバコを吸いたいとも思わないのがヘンだと思っていたが、なるほどこんなことになっていたのかとちょっとしたショックであった。
タバコにこだわるようだが、もうこんなことにまでなるのだとしたら、ここいらが "潮時" だと言うほかあるまい。元々、喉や気管支が丈夫な方ではないと感じていた。それに加えてのへビィ・スモークとなれば、いつかこんなことになったとしても不思議ではなかったのかもしれない。
それにしても、 "外圧" によっての "是正・改革" というのはみっともよくないことこの上ない。
"わたくし、健康への害やら、環境汚染、そして他人への迷惑を鑑み、この正月元旦より禁煙を決意します" とでも振る舞いたかったわけだが、何とも無様であり、袋小路に追い込まれ万事休すとなった野良鼠そのものでしかない。
でも、今後のことを考えれば、たとえ既に肺の中にはヤニが蓄積してはいるのだろうけれど、血管の環境を改善して種々のメリットが復活することであろう。
思えば、喫煙を始めたのは、25の時であった。どちらかと言えば、それまでの思春期、青年期こそが興味本位で喫煙したりするのであろう。自分はそんな時期には、見向きもしなかった。父親は愛煙家であったが、ちょいといたずらで吸ってみようということも皆無であった。
大学時代にも、学園紛争で荒れる構内や付近の喫茶店では仲間たちは議論の際、室内をタバコの煙でもうもうとさせていた。が、そんな時にも、友人からの勧めにも応じることはなかった。
ひょんな転機が訪れたのが25の時であった。当時、自分は、いわゆる大学院浪人という不安定な立場にあり、生活費はアルバイトで捻出するしかなかった。で、そのアルバイトとして、叔父が営んでいた小さな鉄工所の仕事を手伝ったのである。単なる肉体労働ではなく、電気溶接やらガス溶接など、多少の技術が必要であったことが、研究心旺盛な自分をその気にさせたのだった。好きこそものの上手なれ、のたとえどおり、設計作業以外の大抵のことはできるようになったものだった。
作業は、叔父と、これまた親戚関係にある中年の人と3人で進めることが多かった。工場内での溶接作業のほかに、中堅の建築施工会社からの下請け作業もあり、それは最終的には現場への出張となった。
そんなある日、作業の区切りでみなが休憩している時であった。叔父が、わたしの方を見て、
「タバコはやらないのかい? 職人さんなんだからタバコくらいやればいいよ」
と声を掛けたのだった。
思えば、この何気ない言葉が、その後今日に至るまでJTに対して総額何百万円と貢ぐことになったきっかけだったのである。
その時にタバコを口にしたのは、多少の興味心と作業による身体の疲れや倦怠感であったかもしれない。しかも、嫌ならにいつだって止めればいい、という埒外な見当もあったはずだ。
ところが、最初は、叔父のタバコ盆から "ハイライト" を拝借して吸っていたのが、やがて自分で "ショートホープ" を買うことになってしまった。当時、 "ショートホープ" は10本入りの小箱で50円だったかと思う。その手軽さが、ズルズルと自分を引き込んで行った。
その後は、どんな喫煙家もそうであるように、意味もなくただただ日常的所作のひとつとして煙にまみれ続けた。
禁煙の誓いならば、何度も行ったものである。吸い始めて一年と経たない頃にも、タバコとは縁を切ろうと決意したこともあった。タバコ銭にも事欠くことがあったりしたからであろう。
そんな時、友人から映画に誘われたりした。当時の下等な映画館では、館内でも喫煙が黙認されていたかと思う。その煙の匂いは、とりあえず我慢して往なした。が、スクリーン上のとある画面で、 "ジャン・ポール・ベルモンド" が、両切りのタバコを粋に吸う場面が到来したのだった。
こうなると、もういけない。自分は、友人からタバコを引ったくり、待合室へと飛んで出たのであった。友人は、ニヤニヤと笑いながら付いて出てきた。そしてこう言ったのだったかと思う。
「ねっ、ムリなんかすることないのよ。タバコを止めるチャンスなんか、これからだっていくらでもあるんだから......」
その通りには違いない。タバコを止めることに限らず、この表っ面は公明正大以外ではない世間には、ありとあらゆるチャンスが "目次" としては用意されているわけである。しかし、そのチャンスに付されているであろう "但し書き" の量の多さときたらたまらない。それはそのチャンスが事実上不可能であることを慇懃無礼に暗喩しているのかもしれぬ...... (2008.03.06)
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