"もし世界を変えることができないとしたならば、自身が変わる以外にない" と、彼の岡本太郎氏がおっしゃったそうだ。先日、メディアのどこかで耳にした言葉が残響として残っている。
もちろん、岡本太郎氏が強調されたかったことは、 "世界を変えること" であったに違いなかろう。そのデフォルト(初期設定!)を志向せずして、自分という存在も個性をも度外視して "自身が変わる" ということだけに尻尾を丸めて逃げ込むべきではない、と目をギラつかせて叫ぶ同氏の姿が彷彿として浮かぶようだ。
が、それと同時に、 "......ならば、自身が変わる以外にない" と締め括るところに、また "リアリスト" としての同氏の姿を見る思いがする。ゴッホへの道とでも言うべき選択を拒否する人間・岡本太郎とでも言うべきなのであろうか。
とまあ、唐突な書き出しとなってしまった。
"もし世界を変えることができないとしたならば、自身が変わる以外にない" というフレーズには、個としての人間と世界との関係の切羽詰った緊張感がみなぎっていそうである。そう言えばふと、「この世界は自分のためにあるものではない」と何度も自覚したとされるピアニスト・フジ子・ヘミング女史のことも思い起こす。
いやいや、どうも強い個性の芸術家の例を踏まえ過ぎると、これからの話が書き出しにくくもなってしまうか......。
"もし世界を変えることができないとしたならば、自身が変わる以外にない" というフレーズを下世話に読み取るならば、個人と環境世界との調和の問題、あるいは "適合" の問題ということになろうか。いや、とかく個人という存在への視点が霞んでしまい、グローバルにせよ国家にせよ全体環境が優位に扱われる現代という時代においては、個人は、全体世界に対して "適合" したり、 "最適化" したりすべき存在なのだと当然視されているのかもしれない。
だから、さしずめ、現代にあっては、前述のフレーズは、仮説的命題なぞではなく、諦めと嘆きの呟きということになるのであろうか。つまり、 "世界を変えることなぞできないのであるから、自身が変わる以外にない" というようにである。
まあ、この観点で現代という時代の閉塞状況を云々することもできるが、今日書こうとした点は、 "全体状況への最適化" というテーマがとことん加熱した状況、それが現代のまがまがしい特徴なのだろう、という点なのである。
その象徴的な事態は、グローバリズム経済に貫かれていそうであるが、今ひとつ、いかにも加熱していると痛感してしまうのが、ネット検索という切り口から垣間見える "数で決まる世界像" ということなのである。ありていに言えば、一切の価値観的視点を脇に置いて、何はともあれ世界中のネット閲覧者がどれだけ多くアクセスするか、それだけが重要な関心事だと黙認されるかのような時代風潮なのである。
少なくとも、実質的なビジネスの動向は、ほぼ確実に、このネット上でのアクセス数によって方向付けられているかのようである。
こうした潮流の上に、とも言われる。英語のの頭文字を取ってSEO( "Search Engine Optimization" 、サーチエンジン最適化)が叫ばれ、 "SEOを制する者がビジネスを制する" とまで言われそうな風潮をかもし出しているのであろうか...... (2008.04.25)
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