"感情" というものは、決して "穏やかならよかろう" とか "クールならばいい" とか、さらに言えば、 "理性・知性を撹乱しないならば......" と言ったような胡散臭い存在ではないはずであろう。
そんなことは当然なことでありながら、 "合理性" を過剰評価して構成された現代という時代環境にあっては、 "感情" というものは、とかく "制御されるべき" 厄介な存在と目されているかのようだ。
ただ、元々、脳やその他の臓器から生じるとされる "感情" というものは、動物や生物にとって、環境状況を "鷲掴み的に掌握" しようとする重要な生理機能だったようである。環境の異変をいち早く掴み、最適な行動への指針を提供する重要な機能であったようなのだ。
その場からの逃避を促したであろう恐怖感であるとか、回避不能な敵との闘争を促す怒りや憎悪感などは容易に想像できる。また、その逆に、友好や情愛の感情は、味方との協力・協調行為などを促進させて来たはずであろう。 "原始的" な因果関係でしかないかのように見えるわけであるが、極めて単刀直入な真理を表現している。
なぜ、 "原始的" で粗野でもあり、また信頼性に乏しいとさえ思える、そんな "感情" というものに今さら目を向けるのかという点についてである。
考えてみると、 "感情" という機能は、不確かな環境に対する有効性が結構高いのではなかろうか、と思うのである。そして、現代の現時点というのは、まさに不確かさを未曾有のかたちで噴出させている、そんな時代ではなかろうかとも思えるのだ。
確かに、 "合理性" を旨とした思考と判断の道具環境(c.f.コンピュータ・システム etc.)が、時代環境をパーフェクトにコントロールし切れているならば、 "知性・合理性" 以外にわき見をすることもなかろうかと思える。
しかし、必ずしもそうも言っていられないような時代環境に今直面しているような、そんな予感が拭い切れないのである。
"感情" というものを、全面的に "復権" させよ、というような時代錯誤をしようとは思わないが、少なくとも、 "感情" というものを蔑視してみたり、アクセサリーのような副次的なものと軽視する風潮だけは見直して然るべきかと感じている...... (2008.04.17)
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