夕刻となると、窓の外の通りの "電線" の上で、多分 "ムクドリ" だろうと思われる野鳥たちがしばし休んでいるのが見える。毛づくろいをしたりしているが、多少の疲れが見えないでもない。
ねぐらに帰る前のひと時なのだろうか、並んで休んでいる格好が何とも微笑ましい。
つい今しがた飛び立って行った。暗くなり切らないうちにねぐらに戻らなきゃね、とでもいうような雰囲気であった。
野生の動物たちも、朝一番の頃から薄暮の頃まで "生き抜く" と、どうしたって疲れるはずなのだろうと思う。そんなところは、ラクではないビジネス環境で一日を気を張って "生き抜いた" 勤労者諸氏と共通するところかと思われた。
最近はしみじみと痛感するのであるが、 "生きる" というか "生活する" というか、そんな平凡事が、意外と波乱含みで大変なことのようだと感じる。かつては、文字通り、どうということもない平凡な事だと受け止めていたようである。
しかし、昨今は、その日その日がそれなりの緊張感、さらに言えば不安感を秘めているような感触だと言えようか。加齢による身体的なあれこれもあろう。また、高齢化してゆく身内の者たちの動向もある。また、いろいろな意味合いで、仕事面や生活面に容赦なく揺さぶりを掛けてくる "攻撃的な時代環境" という点も大きい。
こうした "センチメント" に浸らされる時、何よりも留意すべきは、如何に "正気と元気" とをセルフ・ジェネレイト(自己生成)するか、ということになりそうだ。
一度、凹んだり、めげたりするならば、気持ちの雪崩現象を呼び込みかねないと言えるかもしれない。先ずは、淡々とやるべきことをやり、できれば、多少アグレッシィーブなアクションにさえ出ることが要求されているような気がしている。
まあ、要するに、プレイを始める前のスポーツマンではないけれど、迫り来るプレッシャーをどう往なし、自身の持てる潜在力をどうしたらマックスのレベルで開花させられるのか、そうしたリアリティが多少なりとも伴う昨今の日常生活である...... (2008.04.04)
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