若い頃の好きな言葉のひとつに、 "ファナティック [fanatic]" というものがあった。もちろん意味は "熱狂的" ということである。
とかく、自身の持ち前の行動スタイルにもそんな傾向が滲んでいると察知していたが、この言葉に依拠しようとした行動は、どちらかと言えば、物事の探求面ではなかったかと振り返る。
まあ、ちょっと格好をつけ過ぎという嫌いもあるが、疲れをさほど自覚しなかった若い頃には、とりわけ知的研究面では、結構、 "ファナティック" に対処して、自身でもそこそこ満足できるアクションをした覚えがないではない。集中力と体力にものを言わせて、一気に何事かの知的作業を完遂させる......、というようなことなのであった。
よく、人には、 "短距離スプリンター" タイプと "長距離マラソンランナー" タイプとがあると言われたりするが、自分は明らかに前者のタイプに近い。事実、実際のスポーツの好き嫌いでも、同じことが言えそうであった。
昨今、この歳となりながら、とかく身辺に課題山積の状況の中にあって、気持ち的には再び "ファナティック" なアクションの出番だと痛感はする。しかし、積年の怠惰な習慣が災いしてか、今ひとつ、思うようには対処できない自身の情けなさを感じたりする。そして、やはり歳のせいなのかと尻尾を丸めそうにもなる。
が、どうも、歳のせいとかという言い訳を持ち込もうとする "そうした弱気" こそが最大の敵であるのかもしれないと気づいたりするのである。
確かに、プロスポーツのプレイヤーなどには、歳による肉体的限界というようなものがありそうだとは思う。ただ、それでも一般的な "年齢限界説" にチャレンジしているプロも決して少なくはない。そこには、対処の仕方の可能性やら、当人の意識面でのパワフルさを感じさせるものが大いにありそうだ。
思うに、一般的な "年齢限界説" なんぞを簡単に信じたり、それを厳密に検討することもなく、歳のせいだから......、と弱気に雪崩れ込むのはどうかということなのである。
もし、それを言うならば、われわれは、昔の人々のようにある一定の歳となったならば、それなりに悟るものを悟り、大人げのある人格形成を達成してきたのか、ということになる。
つまり、「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したご)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。」【孔子 論語より】という、古人の人生の "ものさし" どおりのことをやってきたのか、ということなのである。
そんなことはどこ吹く風の体たらくでありながら、体力・気力・努力に関する振る舞いだけは、いや、歳のせいで......、と怯(ひる)むというのは、実に勝手な言い訳、弱気に対する言い訳でしかないということになりそうではないか。
てなわけで、古人とは、 "年齢のものさし" において別様なものを適用せざるを得ない現代のわれわれにとっては、 "四十、五十ははなったれ(洟垂れ)、六十からがまともな勝負!" とでも言うべきなのかもしれないわけだ。
六十からが、 "ファナティック" な挑戦だとほざいてみたいものである...... (2008.05.18)
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