ふと振り返ってみると、 "還暦" の言葉を耳にしてから、急にいろいろと忙しくなった気がしている。 "還暦" というものが、人生 "双六" のそれなりの "上がり" だなぞとは到底思えない。
まあ、世の中には、そうした環境の方もいらっしゃるのかもしれない。羨ましいかと言えば、そう言えなくもなかろう。ただ、痩せ我慢でもなんでもなく、否応なくフル回転せざるを得ない現状は決して悪くはないと感じている。そうした現状が、安逸をむさぼればきっと老化の速度を速めるに違いない "傾斜角度" を、有難くもなだらかにしてくれているような感触を抱くからである。
こんなことを考える時、念頭に置いているのは、いうまでもなく "脳" の働きの "したたかさ" についてである。多分、 "脳" の働きというものは、自身の置かれた環境状況に対して驚くほどに敏感かつ正直なのだろうという気がしている。他人を騙すことができたとしても、自身の "脳" の働きについては、意外と偽れないのかも知れないと感じたりしている。
確かに、 "脳" は不自然なプレッシャーを受ける状況では、十分な働きを損ねる可能性がありそうだ。しかし、逆に、言ってみれば自身の心のどこかに(これもまた脳内の働き以外ではないが) "余裕" めいたものを居座らせているならば、きっとそれをいち早く察知するのが、 "脳" であり、その結果、ベストを尽くす必要はない、と了解するのではなかろうか。
大体、生物の身体というものは、自己保身に優れていて、そのためにエネルギー保全(?)という基本対策の維持を遵守しているものと思われる。しかも、生物の身体の中で極度に発展した結果の "脳" の場合は、もちろんこの傾向もさらに強いはずに違いない。
裏返した表現をするならば、 "脳" は思考において大きく深いパワーを発揮するとともに、ヒマさえあれば手抜きをして "余力" を残そうとする才能も優れているようだ。
これをどう了解するか、ということなのである。 "余力" を残すといえば聞こえはいい。しかし、 "余力" とは、何か本命の遂行課題があってこそ意味を持つはずだ。いつか、そうしたものが出現するだろう、そうしたものに遭遇するだろう、と安請け合いしているうちに、多くの人がその機会を逸したり、あるいは "脳" のマイナス面でのしたたかさに引き摺られて、むざむざボルテージを下げ続けるのかもしれない。
簡単に言えば、大多数の人間は、この "余力" の名のもとに、 "脳" に対して驚くほどの "過保護" となり、挙句の果てに、使用期限や可能性を残したままに、 "棺桶" や "墓場" へと持ち込んでいるのかもしれない。
自身の "脳" を管理したり鍛えたりするのもまた自身の "脳" だという悩ましい関係を背負い込んでいるのが、人間というものなのだろう。
時として、時代環境や身辺の環境は、本人が望むこととは裏腹な状況を人それぞれに与えるものだ。そんな時、いろいろと感想を持つことになるが、できれば、ここが自身の "脳" の働きを飛躍させる好機だと粋がってみるのもいいのかもしれない。少なくとも、あたらたっぷりと可能性を残したまま消滅させるのは、如何にも惜しい...... (2008.05.21)
コメントする