"後期高齢者" という役人用語には、役人たちの "発想の貧困さ" が嫌というほど染みついている。高齢者も "後期" と呼ばれる段階に踏み込めば、医療費を無為に取り崩すだけの "穀潰し(ごくつぶし)" だと決めつける、そんな "底意地の悪い判断" が見え隠れしている。
もし、 "後期" という段階を問題視するならば、官僚人生の "後期" をこそ白日の下に曝さねばなるまい。言うまでもなく、度重なる "天下り" によって、巨額の退職金を掠め取り、その結果、公の財政を蝕んでいる度し難い現実である。
こうした臭気芬々たる闇の現実を温存しつつ、財政難だから応分の負担を、とぬけぬけと立論するところが、 "発想の貧困さ" であり "底意地の悪い判断" だと言わざるを得ないわけだ。
それにしても、冒険家、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん(75)は、絶好のタイミングで、 "後期高齢者" というアホな用語とイメージを粉砕してくれたものである。
この間の、官僚たちの言いたい放題、やりたい放題によって打ち沈むことになっていたかも知れぬ全国のお年寄りたちも、きっと何がしかの溜飲を下げたのではなかろうか。
三浦雄一郎さんは、その意味では、 "8848メートル" の天空からお年寄りたちに希望と勇気とを降り注いだということになるのかも知れない。
もちろん計量は不可能だが、この事実によって、お年寄りたちのメンタルな部分が活性化され、健康状態に幾分かの改善が見られたとするならば、あるいは、その効果の今後への継続をも読み込むならば、医療費逼迫に対して小さくない支援がなされたとも言えるのではなかろうか。
本来、お年寄りたちにこのような精神的、文化的支援を積極的に行うこと、つまり予防的健康法の実施によって医療費支出の圧縮を目指すことだって、官僚・役人たちは必死で行えばいいではないか。聞くところでは、逆に健康診断料の負担まで新たに追加しようというのだから、話になるまい。
要するに、持続的な観点での知的な方策作りが乏しく、ただただ無策の現状を延長するだけの "数字合わせ" をしようとしているに過ぎない、と見える。そんなことならば、彼らが常々見下している民間の、どんな人材にだって肩代わりができそうではないか。
いやはや、 "鈴も付けられていない猫たち" の鼻っ面から大事な鰹節を取り上げなければ、いや、それが無理ならば、 "鈴" なり "発信装置" なり、彼らの "ガンバリぶり" が手に取るようにわかる、そんな仕組みを一刻も早く作るべきではなかろうか...... (2008.05.26)
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