先週、脳科学者の茂木健一郎氏が<「総合」苦手な日本の知識人>(茂木健一郎 クオリア日記 2008/05/23「総合」苦手な日本の知識人および、 "「総合」苦手な日本の知識人" 『日本経済新聞』2008年5月21日 夕刊)を、ご自身のブログで紹介されていたのに対して、自分は "トラックバック" をさせていただいた。
同ブログでは、ご自身がチェックされた上でトラックバックを公開するかどうかを決めるという賢明な方針を採られていたから外されても仕方はなかろうと考えていた。が、一応、紹介していただくこととなった。
それはともかく、<「総合」苦手な日本の知識人>という批判的視点は、自分もかねてより強い関心を寄せていただけに、 "わが意を得たり" とばかりに "トラックバック" に及んだのであった。
自分自身も、何十年も以前の研究生活(大学院)時代には、学者・研究者たちのいわゆる "蛸壺" 状況を骨の髄まで痛く感じていただけに、他人事ではなかったわけである。
とともに、現代日本のまるで袋小路に入り込んだような "閉塞的" 問題状況を鳥瞰し、つたなくも考察しようとする時、まったく同じ問題構造に気づかざるを得ない。
アカデミズムの "蛸壺" は、潜ってみるならばその出口は、アニメ映画『イエロー・サブマリン』(ビートルズ)の一場面ではないが、あるいはドラえもんの "どこでもドア" でもあるまいし、通り抜けてみると現代の諸悪の根源とも言えそうな "縦割り官僚機構" の "蛸壺" へすんなりと直結しているかのようではないか。
そして、この "縦割り官僚機構" の "蛸壺" こそが、社会現象の "不透明化" をもたらすとともに、問題解決型の組織体制をなし崩しにし、事態を混迷させている張本人ということにはならないだろうか。
要するに、<「総合」(が)苦手>で、 "蛸壺" 好みとなってしまうのは、この国、この社会にあってはとてつもなく "根深い習性" だと思えるのである。
ところで、この "蛸壺" 状況の "罪悪" や "被害" というネガティブな面に目を向けると、いろいろと懸念すべき点が列挙できる。が、象徴的な表現をするならば、 "悪貨は良貨を駆逐する" ということに尽きそうではないか。
つまり、アカデミズムのジャンルでも、行政の領域でも、 "専門性" という "ぱっと見" 説得性のありそうな立論がわが物顔で闊歩するということなのである。これを否定したり軽視したりするつもりはないのだが、とかく、 "専門性" という通りのいい名を響かせながら、まるで "虎の威を借る狐" のごとく横柄に振舞う者たちも少なくなさそうだからである。そして、現実的な問題解決が往々にして必須とするはずの "総合" 的視点を棚上げにしつつ、そればかりか、そうした視点に挑もうとする者たちを揶揄したり、蹴散らしたりする低次元のことまでしているのではなかろうか。
だから "悪貨は良貨を駆逐する" と言ったまでだが、もっと性質(たち)が悪いのは、 "専門性" を裏付けるとする情報を、とかく積極的に公開しようとしないで、隠匿に至ることもあり得るという点であろう。
"縦割り官僚機構" の下で、もし情報公開が機能不全に陥るならば、まさに社会全体領域での最適選択が頓挫することは明白だ。 "部分最適" は "全体最適" に至るとは限らず、というシステムの鉄則が想起されるべきなのである。
で、最近、ちょいと気になるのは、度し難いのはプロフェッショナルの "蛸壺" 族たちだけではなく、巷のオピニオンたちまでが、まるで "蛸壺" 族たちの配下であるようなみっともない発言や振る舞いを平気でなさっていることなのである。
もっと "庶民感情" に立脚して自身の生の感覚を発露させたり、庶民ならではの立論で迫ればいいじゃないか、と思う。地球温暖化問題じゃないが、事態の悪化は想像以上の速度で驀進していそうである。色とりどりに添えられたもっともらしい数字で足元を取られてもならないし、特殊なインタレストが塗り込められた客観的論調に惑わされてもなるまい。
"庶民感情" に真理が宿っているとまで言い切る自信はないにせよ、 "蛸壺" の中で思考停止状態に固まった方々の感性よりかは、はるかにまともな将来を見通す足場となるのではなかろうか...... (2008.05.27)
コメントする