「下手の考え休むに似たり」(よい知恵もないのにいくら考えても、時間がたつばかりで何の効果もない......)とはよく言ったもので、今日は、 "休むに似たり" のような空白の時間を過ごしてしまった観がある。
この冴えない天候のせいもありそうだ(低気圧は良くない!)が、このところ睡眠状態が芳しくなく、昨夜も切れ切れの睡眠、それはまるで各駅停車に乗ったかのような感じでさえあった。これではただでさえぱっとしない脳活動のボルテージが上がるわけがなかろう。おまけに、バカバカしいことなのだが、昨夜食事中に、歯に被せた金属がポロリと取れてしまい、今朝は、急遽、歯医者に出向かざるを得ないというハプニングまで加わった。まさに、出鼻をくじかれたふうでもあった。
やろうとしていること、やらなければならないことが片方には山積しているにもかかわらず、 "休むに似たり" のような "思考もどき" に入り込むと、我ながら惨めな気分にさえ陥ってしまう。それで、こんな愚痴めいたことから書き始めて、何かきっかけを得ようとしている按配なのである。
こんなことならば、余計な "思考もどき" になんぞ入り込まずに、黙々と "力仕事" に身を任せ、ついでに頭の方も任せればよかったかと悔いたりしている。
以前に読んだ養老孟司氏のある著書で、脳という器官は、生物(移動する生物)が必要に迫られて構成しはじめたものであるとともに、通常の神経系が持つことのなかったいわば "余裕" (?)を持つに至ったことで、観念や妄想をも生み出した......、というようなくだりがあったかと記憶している。
はじめてその叙述に出くわした際には、養老孟司氏も随分と "シニカルな表現" をされるものだと、やや抵抗感を覚えたものであった。しかし、その後、この表現を記憶し続けているところをみると、自分自身でも半ば了解していたのかもしれない。
自分なりに茶化した言い方をすれば、脳の一面には、 "二階に厄介" であわせて "十回" の身の居候(いそうろう)のような、どこか "余計な存在" という側面がないでもないのかもしれないと......。
つまり、とかくわれわれは、脳とか脳の働きというと、永い生物史の過程で培われてきたものであるだけに、その存在を全面的に擁護してしまいそうである。脳や脳の働きには生物の生存を最適に導く "羅針盤" のようなものが埋め込まれていて、またムダなものもないはずだと信じてしまいそうである。
確かに、そうした驚異的な構造が埋め込まれていそうだと痛感することもないではない。たとえば、睡眠における "レム睡眠" と "ノンレム睡眠" の分化や、また "夢" を発生させる機能、そして、さまざまな "脳内物質" が脳や心の機能をつかさどる仕組みなぞは、文句なく感動に値する出来栄えだと言うほかない。
しかし、果たして脳とその働きは、全面的に擁護し尽くされてよいものなのか、と "シニカル" な疑問を持つこともあってよさそうだと思ったりするのである。
こう書くと、いやいやそれは、個体性の問題であり君の場合がそうだということであって、一般的には全面的な擁護に値する存在であるはずだ、と言われそうでもある。
そう言われればそうであって、要するに、自身の脳の "運用・管理" のあり方に掛かっているのかもしれない。ちなみに、昨今は、脳をどう管理するのかというようなハウトゥ本も数多く出版されているようだ。みんな、お金の "運用・管理" だけではなく、自身の脳の "運用・管理" のあり方に多々悩んでいるのかも知れない。
まあ、それはそれとしても、今一歩踏み込んで、そもそもの脳の働きというものをシラーッと見つめてみることもアリなのかも知れない。つまり、脳という個別器官にすべてを任せっきりとしようとするのではなく、トータルな身体全体の働きを通して、それで脳の働きを見つめるということになりそうか...... (2008.05.29)
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