もう8年目になるほど毎日 "駄文" の日誌を綴っていると、どんなバカでも、ある種の閃きや悟り(?)に到達するものであろう。自分も、その点では御多分に洩れず、それに似た自覚だけはしている。
それは何かと言うと、書きたいことや書くべきだと感じたことを、できるだけ "シンプル" に表現し切ってしまう、ということなのである。
もともと文章化をするという行為は、他者に対してにせよ自身に向かってであるにせよ、いずれにしても、記憶に留められ、できれば反芻されて、さらに贅沢を言うならば、他者であろうが自分自身であろうが、それが原因となるようなアクションが促進されるならば言うことはない。
ところが、往々にして、そうではないケースが多くなってしまい、またまたやってしまったと凹むことが少なくない。言ってみれば、書くために書いたというような正真正銘の "駄文" に終わるということである。我ながらあきれてしまうこともあるが、ひどい場合には、書き終えてさほど時間が経過しないうちに、エーッと何を書いたのだったっけ、という恥ずかしい体たらくとなることもないではない。
確かに、 "下手な鉄砲も数打ちゃ当たる" ではないが、長期に渡って文章化作業を習慣づけると、文章の体裁だけは一応つくろう状態となるのは事実であろう。
しかし、自分がこうして毎日書いているのは、何も "官僚作文" の極意を得ようとしているからなんかではない。むしろそうしたものを最も嫌悪している。そうした、形はあるけれど内容はナイヨウ! という類のメッセージが巷に溢れるからこそ、時代と世の中が立ち腐れ状態となるのだと確信してもいる。
と言って舌の根の乾かぬうちに、あーだこーだと書きながらじわじわと "長文駄文" へと嵌りつつある予感がしている。
いつであったか、議員さんたちの会話の中に、「その説明では国民にはわかりにくい。もっと "シンプル" に表現すべきだ」というような言葉があり、それを捉えて、とある有識者たちが「物事をそう単純化すべきではない」と批判したことがあった。
その際、自分もまた頷いたのではなかったかと記憶している。社会問題や政治の争点を、やたらに "単純図式化" したのでは、客観的な事実認識をミス・リードすると思ったからなのである。かなり危険なことだとも感じたわけである。この点なぞについては、今でもこだわり続けている自分である。
ただ、この主旨を尊重したとしても、やはり、文章やメッセージというものは、 "簡潔明瞭" さを目指さなければならないのだと思われる。
とにかく、われわれの日常生活にあっては、メッセージやその他諸々の情報が溢れかえっているわけだ。その結果、いわゆる、 "情報アパシー" と呼ばれるような症状が社会に広がっているのだと指摘されてもいる。ということもあって、一方では、より "簡潔明瞭" なメッセージや情報が期待されることになるのであろう。
今日、こうしたことを書いたきっかけはというと、いわゆる "マーケティング" のジャンルにおいて、『ポジショニング戦略[新版]』(アル・ライズ、ジャック・トラウト著、川上純子訳)というちょっと興味を惹くものに遭遇したからであった。この著書の詳細については言及する余裕がなくなってしまったが、 "マーケティング" ジャンルの古典(初版1972年)だそうであり、現時点での "情報アパシー" 状況にあっては、再度この "ポジショニング" という概念に回帰すべきだということらしい。
ちなみに、そのエッセンスをちょっと引用しておく。
<何であれ、情報社会で成功するためには現実に即していなければならない。「現実=リアリティ」とは、「消費者の頭の中に既にあるもの」だ。
ポジショニングの基本手法は、「消費者の頭の中に既にあるイメージを操作し、それを商品に結びつける」というものだ。誰の頭にもない新奇なイメージをつくりだすことではない。......
人は、とてつもない量の情報が押し寄せると、本能的にそれらの情報を払いのけ拒絶する。一般に、頭脳は、過去に得た知識や経験に合致するものしか受けつけない。>
不況という状況も重なって、現在はますますモノが売れない事態となっていそうだ。そんな中で、否応なく "マーケティング" がクローズアップしていそうである。そして、 "シンプル" な表現とか、その別表現でもありそうな "ポジショニング" という概念あたりが、有効性を発揮しそうな感触なのだろうか...... (2008.05.14)
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