今日は、とにかく目一杯働くこととなった。
たまたま、今朝は、5時半に目が覚め、結局6時には起床してしまった。昨日までの冴えない天候であれば後1時間位は寝ていたはずだが、今日は久々に良く晴れ、明る過ぎて眠ってはいられなかったということだ。
おかげで、7時には出社し、そのまま溜まっている作業課題に没頭した。その後の10時間は短時間の休憩はとったものの、ほぼ一貫して作業にあたり続けた。
そんなことが可能であったひとつの理由は、当面の作業課題が、いわゆる "力仕事" であったからかもしれない。つまり、悩ましく考え続けなければならないといった課題ではなく、比較的慣れているPC・IT作業の項目的な課題なのであり、それらを次から次へとこなすという経緯だったのである。
とかく、悩ましく考え続けてみても成果がえられにくいことにまみれていると、こうした "力仕事" で忙殺されるのはある意味では心地良いとも言える。
ただし、それだけで仕事をやっているつもりとなれるものではない。こうした "力仕事" の積み重ねが切り拓いてゆく道の先に、何を見出すか、それにぶち当たってゆくことこそが本命の仕事なのだと自分にも言い聞かせている。
以前にも書いたが、IT関連のジャンルの作業課題というものは、実際に手を染め、手を下してみないと、なかなかその価値が評価しにくいものだと思われる。昔、プリンの味は食べてみないとわからない、というようなコピーフレーズがあったかと思うが、まさにそのような意味合いであるのかもしれない。こうした脈絡には何が潜んでいるのか、それを考えてみることは、興味深い問題かもしれない。
その辺の事情を、荒っぽく、 "経験" の問題なのだと言ってしまうことも不可能ではないと思われる。 "情報" というものは、抽象的レベルに吸い上げられ、加工されて後に、人々の目に触れ、脳内を駆け巡るものではあろうが、元々は、 "体感的" に捉えられ、そのレベルで切磋琢磨されてきたものであるに違いない。
そして、そうした "体感的" に捉えられる可能性が並存していた環境にあっては、その環境自体が "情報" の内実を理解させる橋渡しをしていたのかもしれない。人が、ちょいと小難しい理屈などに遭遇した際、いや、言ってみれば何々のようなものさ、と実体験のアナロジーに頼ったりするのは、その例だとも言える。
しかし、現代の "情報" 環境、IT環境は、過去の牧歌的とも言える環境と比べれば、雲泥の差がありそうだ。つまり、過去の人々が、実生活の "体感的"、"体験的" 環境から得たものによって、とかくわかりにくい "情報" 環境に迫ったのに対して、現代の生活環境からは、そうした "体感的"、"体験的" 環境面が圧倒的に削り取られているような気がする。そして、 "情報" による人工的な環境が大半を占めてしまい、極論するならば、抽象的な "情報" によって同種の全体環境を推測、認識しなければならない構造となっていそうである。
この辺の事情から、現代のIT環境にあっては、そうしたIT環境や高度な "情報" 環境を、それ自体として肌身で "体験" してみなければ、事の実相には迫れないと思われるのである。プリンのような、それまでの自然食からの推理を阻む食感の食べ物の説明(認識)に手を焼いた人々が、結局は、食べてみないとわからない、と言いのけたことが、今また、IT環境は "体感的" に活用してみなければわかりようがない、と言いのけようとしているのではなかろうか...... (2008.05.15)
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