その姿を想像するとゾッとしてしまうが、 "幸運の女神" とやらには、 "前髪はあるが後髪がない" という "目撃情報(?)" は、どうも確かであるらしい。
つまり、 "幸運の女神" を捕獲するのは、それが "前髪" を振り乱して接近してくるところをここがチャンスとばかりに "前髪" を引っ掴んで拿捕するのが定石だというのである。一瞬、躊躇してしまい、それが通り過ぎたところで "後髪" を掴もうとしても、それは無いということらしい。
よくも、見てきたようなことを言うものだと思うが、ナールホド、と感心させられる洞察力のあとが滲んでいそうである。
この "目撃情報(?)" のエピソードに隠された真実はというと、 "幸運の女神" の正体は "誰にもわからない" 、ということであるに違いなかろう。 "誰にもわからない" というのが言い過ぎであるならば、 "結果論" 的にしかわからず、 "リアルタイム" でわかる者は僅少である、と言えば正解に近くなりそうである。
似たような事情を語る格言に、 "愚者の後知恵" というものがある。言われてみて、眼前に示されてみて初めてその妙案に気づくという大多数の凡人を揶揄した言葉だ。
ところで、この隠れた真相のさらにその下層には、より重要な事柄が潜んでいるかのように思える。簡単に言ってしまえば、 "勘" ということになってしまうが、それでは話を煙に巻いている気配が漂う。
今少しもっともらしく言えば、対象なり、状況なりを通り一遍の客観的観察で流さず、 "主観" (ここには、積み上げた経験、体験や、意味・価値をめぐる思索の堆積がある)によって再構築・再解釈しようとする能動性だ、ということになろうか。
こんなことを考えていた時、面白い視点で語るブログを見つけたのだった。
<成果というのは、運を引数とする関数の戻り値>である、つまり<成果 = 実力 ( 運 )>なのであって、決して、<成果 = 運 + 実力>ではなかろう、という考察なのである。(子飼 弾『404 Title Not Found』 「成果 ≠ 運 + 実力」 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20080601/305605/ )
"成果" とは、スタティックな "運" と、これまたスタティックな "実力" とを加え重ねて得られるものなんぞではない、と言う。ダイナミックな捉え方しかないはずの "運" というものに対して、さらにダイナミックに対応処理するところの "実力" が、安定したスタイルで立ち向かうことによって構成されていくものだ、とでも言っているようなのである。下世話な言い方をすれば、 "運も実力の内" という表現になるのかもしれない。
とかく、 "運" というものは、 "既製品" や "吊るし" のように、誰が、いつ眺めても客観的で不変の存在であるかのように受けとめられがちである。しかし、実相、真相は、多々、加工されたり再加工されたりする "原材料" 的な意味合いに満ちたものなのかもしれない。だからこそ、 "ピンチはチャンス!" というような逆説的表現もまたなされるのであろう...... (2008.06.04)
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