都会にも人間たち以外に多くの動物たちが生息している。そして彼らが生きるその気配は、ますます人間たちに安堵感を与え、癒してくれているようだ。
中でも、自分は野鳥たちの鳴き声が好きだ。もちろん、夜明けに幾分遠慮がちに鳴く早起き鳥たちの声はすがすがしい。また、日中に戸外で耳にする鳴き声も悪くはない。
ピーィという声で騒がしくさえ聞こえるヒヨドリにしても、ムクドリにしても、そしてスズメでもカラスでも、皆一様に "飾り気" なんぞがなくてとても良い。と言って不快感を刺激するような "乱暴さ" もなく、 "粗野" な雰囲気が "純粋さ" というか、 "一途さ" を感じさせ、都会での人間社会が持ち合わせなくなったものをそっくり埋め合わせてくれるようだから気持ちが和むわけだ。
犬の鳴き声も、決してうるさいとは思わない。夜、近所の飼い犬が何に怯えているのか、何を威嚇しているのか知らないが、精一杯吼えているのを耳にすることがある。
ちょいと注意を傾けてみると、一向に "利口" そうな感じがしないのである。何かを考えた末に、止むに止まれず吼えている、といった "知的文脈" が微塵とも感じられない。もちろん、何か自分が "得" をしようとする "計算" なんぞがあってのことでありようがない。むしろ、夜遅く吼えれば家人から怒られるという "損" さえあるはずだろうが、そんなことはお構いなしなのである。
こうした "計算ずくではない" 粗野でしかないアクションが、何とも可愛いし、 "そうかそうか" と頷いてみたくもなるのである。
散歩させられている犬たちは、その歩く姿や所作を見ても、"そうかそうか" と感じさせるものがある。地面をクンクン嗅ぎながら這って、時折、電柱や植え込みを見ると、強引に飼い主を引っ張って、片足を上げに行く。犬の、古来からの習性であることは先刻承知ではある。が、 "今どき、まだそんなことやるんだねぇ......" というような、狭い "人間本位" の思いを誘う。
と、ふいに、そうした "人間本位" の思いに支配され尽くされている自分と、人間たちの世界がどんなに変わろうとも、何百年このかた涼しい顔してゴーイング・マイウェイを決め込んでいる犬たちとが、まるで "両極端" であるように思えてきたりする。どっちが幸せなんだろうね? という他愛無い疑問も生まれてきたりするわけだ。
そして、つらつら考え及ぶと、現代人たちは、もはや、犬たちに限らずペットたちという存在無くしては一時も暮らせないほどに、 "心寂しい" 動物に成り果てているのだ...... (2008.06.07)
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