このところの大きな "自然災害" は、人々の不安感を不気味に煽っているようだ。海外でも、巨大台風や激しい震度の地震が何万人という規模での被災者を生んでいる。そして、今日は国内で "岩手・宮城内陸地震" という強い震度の地震が山村の地形に大打撃を与えたようである。
山や崖が崩落し、アスファルト道路が見る影もなく破壊され寸断され、川の流れが土砂崩れで堰き止められる。そんな光景は、つい先ごろの中国は四川での大地震の報道で目に焼きついているが、国内で同じことが起きるとなおのこと自然災害の恐ろしさを痛感させられる。そして、 "潜在的な自然エネルギー(の歪み)" とでもいうような問題が、不気味に思い浮かんでくる。
こうした不安の不安たる理由は、これらの地震と地殻エネルギーの歪みなどの問題は、まるで人知が及ばない未知の領域の問題であるかのような扱いを受けていることにありそうだ。ホントにそうなのだろうか?
考えてみれば、地球温暖化問題にしてもそうだが、事が現実化するならば巨大な災害となることがリアルに推定されている問題などが、意外と、必ずしもベストな対策で臨まれていないという現状は一体どうしたことなのであろうか。
片方では、華々しい宇宙開発の光景がニュースでも大々的に取り上げられ、あたかも今やサイエンスは宇宙の摂理を改造するに至ったとでも言いたげな雰囲気さえ漂わせている。それもいいけれど、こうした巨大地震問題のような、地上の自然災害問題において不気味さだけを昂進させている課題があることから目を逸らしてはならないはずだろう。
対処すべき "優先順位" というものが、どこか "恣意的" でありはしないかと警戒するわけである。
地球温暖化問題にしても、地球環境の命運問題よりも経済競争を優先させる動きがリアルであり過ぎるわけだ。先日も、NHKの報道番組で知らされたのだが、地球温暖化傾向で今や "北極圏" は大変な異常事態に見舞われているにもかかわらず、その最中で北極の海底に埋蔵された地下資源をロシアなど近隣各国が狙って蠢いているというのである。これまで凍てついていた北極は手がだせなかったのに対して、温暖化によって北極の氷が融け始めたのをこれ幸いと見なしているようなのである。まるで、 "火事場泥棒" の感触ではなかろうか。
また、今回の "岩手・宮城内陸地震" というような強い震度の地震が、東京近郊に発生したならば、一体どんな惨状となるのかについては、誰もが危惧しているところではなかろうか。しかし、その対策が圧倒的に不十分だとしか言いようがない状況であるにもかかわらず、それに抜本的な対策が講じられるどころか、逆に "何故?" とその根拠が問いたくなるような "オリンピック誘致" がキャンペーンとして繰り広げられているのも全く釈然としないのである。ここにも、対処すべき "優先順位" づけの "恣意的" な姿を見るような思いがしている。
自然現象の因果関係であれ、人為的因果関係であれ、そして責任関係であれ領域は問わないが、推定的には明らかに明瞭だと判断される事実であっても、とかく "はっきりしない" こと、そう見なされる事柄や問題には、世間や世界はまともに取り組もうとはしない、というのが一般的な現実というものなのであろうか。
当然だと言えばそうも言えようが、それはやはり間違っている。近代的合理主義、そしてサイエンスが目指す客観的真理というものは、そんな "狭い了見" で追求されるものではないはずだ。 "はっきりしない" ことというのは、だから "無視してよい" ということでもなければ、まして、だから "無い" と同じだということでもなかろう。
しかし、国内外を問わず現代の世相は、ますます明々白々の事実しか尊重しないし、そうした事実によってしか拘束されない、というようなおぞましい水準に潜り込んだ観がある。その結果、巨大化する "不測の事態" を招く可能性を蓄積させている...... (2008.06.14)
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