"小奇麗" という言葉があれば、 "小汚い" という言葉もある。
昭和30年代以前と言えば自分の子ども時代ということになるが、この時代の特徴を下世話に表現すれば、万事が "小汚い" ということになるのかもしれない。自分は知らないのだが、終戦直後の "やみ市" 時代ほどの "汚さ" ではなさそうだが、それでも、昭和30年代およびその直前あたりという時代は、町の光景も、そして子どもたちの服装なども、一言で言えば "小汚い" ということになりはしないかと思う。
自宅の近所に、昭和30年代の雰囲気を "売り" にした "お好み焼き" ショップがあるのだが、店の入り口付近は、この時代の空気を表現しようとしていろいろと工夫が凝らされている。汚れた木造建築物の一部を添えてみたり、電柱や当時の看板を設えてみたり、要は生活臭のあるいろいろな小道具を並べ立てているのだ。そして、それらが醸し出す印象はと言えば、つまり "小汚い" 佇まい! ということになるわけである。
これは、決してそのショップを揶揄しているわけではない。まさに昭和30年代およびその直前あたりの時代は、 "小汚い" 佇まい! という表現がぴったりする印象が特徴的だったのではなかろうか。
多分、年代ものの "木造建築" が町並みを構成していたところからそうした特徴が現れてきたのであろう。また、アスファルト舗装道路以前の、砂埃、土埃が立つ道路事情というのも原因なのかもしれない。そして、子どもたちに限らず人々の服装がまた、地味で質素だと言えば聞こえはいいが、それを下回り "小汚い" の範疇に区分けされがちな印象もあったであろう。
まあ、モノ不足が尾を引き、衣類も現在ほどに安価なものが大量流通していなかった時代だけに、 "食・住" の低水準とともに "衣" に関しても粗末さが一般的であったようだ。男児なぞは、夏場であればそれこそ "小汚い" 感じの "ランニング・シャツ" 姿がごくごく普通であったと覚えている。何ともセンスのないありさまであったことか。
今日、こんなことを書くに至ったのは、映画 "ALWAYS 続・三丁目の夕日" のDVDを漸く鑑賞することになったからである。この映画は言うまでもなく昭和30年代の光景を前面に打ち出した作品であり、まさに昭和30年代の "小汚い" 感触が、存分に画面に滲んでいるのである。懐かしいなぁ、と身が震えるとともに、やっぱりこの時代は "小汚い" なぁ、と再確認したというわけなのである。
と言っても、上記の "お好み焼き" ショップ同様、揶揄しているのではなく、 "誉れ" ある個性的特長を再認識しているのである。
つまり、昭和30年代の人間ドラマにおける感慨のすべては、その "小汚い" 舞台環境、古きものが雑然と佇む光景があってこそ意味を持ち、引き立ちもする、と思えてならないのである。 "小奇麗" でスマートなモノや環境が溢れる現時点のような舞台環境では、昭和30年代的人間ドラマは、どうしてもシラケ気味となってしまうのかもしれない。
"水清ければ魚棲まず" ということわざがあるが、昭和30年代という時代環境は "濁り水" の環境であったがゆえに、人が "人間らしく" 暮らしていたのであろうか...... (2008.06.15)
コメントする