"マージナル・マン" (境界人、周辺人)という言葉が気になった。
とりあえず<広辞苑>での説明を引いておくと、以下のようになる。
<民族・地域・階層・文化などについて、異なる複数の集団の境界にあって、いずれの集団にも十分帰属していない人々。>
また、心理学者のK.Lewinが、発達心理学の観点から青年期は児童期と成人期との過渡期にあり、青年は子供の集団にも属さず、大人の集団にも属さない中間の存在であるところから、不安定な心理状態を特徴とする青年を境界人と呼んだとの説明もある。
しかし、自分の現在の問題意識に照らすと、次の解説が最もフィットするようなので、長い引用をさせていただくことにする。
<異質な諸社会集団のマージン(境界・限界)に立ち、既成のいかなる社会集団にも十分に帰属していない人間。境界人、限界人、周辺人などと訳される。マージナル・マンの性格構造や精神構造、その置かれている状況や位置や文化を総称して、マージナリティと呼ぶ。マージナル・マンの概念は、1920年代の終わり頃に、アメリカの社会学者バークが、ジンメルの《異邦人》の概念(潜在的な放浪者、自分の土地を持たぬ者)の示唆を受けて構築した。バークは《人種的雑種》(たとえば、白人と黒人の混血児=ムラトー、スペイン人と先住民族の混血児=メスティーゾ、東洋人と西洋人の混血児=ユーラシアンなど)に典型的にみられるパーソナリティ類型(自我の分裂、行動の不安定、強い自己意識、激しい内面葛藤、根なし草の感じ、帰属への欲求の強まり)の持ち主を、マージナル・マンと呼んだ。つまり、《人種と文化の葛藤から、新しい社会・集団・文化が成立した同じ時と場において生じたパーソナリティ類型》を示すものとしてマージナル・マンをとらえた。
マージナル・マンの理論は、多くの社会学者によって、さまざまに批判と修正がなされた。たとえば......(略)
マージナル・マンは、自己の内にある文化的・社会的境界性を生かして、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して、ある種の距離を置くことが可能である。それゆえにマージナル・マンは、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっている。したがってマージナル・マンは、被差別の立場に追いやられるだけでなく、脱差別の方向を志向する場合もありうる。>( 今野敏彦 / http://wiki.blhrri.org/jiten/index.php?FrontPage )
今、この時代環境にあって最も必要なことは、いろいろな意味において<生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して、ある種の距離を置くこと>ではないかと自分は密かに痛感している。それは単なる政治的レベルの問題の範疇にとどまらないのではないかとも感じている。
現代という時代環境は、政治・経済・社会そして文化の大半が、 "巨大なスケールのサイエンスとテクノロジー" によって包み込まれて、個人たちの営みを圧倒的に凌駕してしまっていそうである。そして事実上、個人たちを、自力で考える余地もなくこの環境を "追認" せざるを得ない、そんな精彩のない状況に追い込んではいないだろうか。
つまり、<自明の理とされている世界観>は、ますますその<自明性>を塗り固めはじめているかのような印象が否定できないのである。
そして、かつて<自明の理とされている世界観>に意図的に距離を置く者たち(知識人たち?)がいたと伝説的な話としては聞く。しかし、そうした者たちも、今や、<自明の理とされている世界観>に "屋上屋(おくじょうおく)" を築くような "イージィー・ワーク" に勤しんでいるかのように見える。
"スーパー・マン" や "スパイダー・マン" の登場が期待されるよりも、 "受苦" を承知の上で意図的に振舞う、そんな "マージナル・マン" こそが待ち望まれているような気がしてならない...... (2008.06.17)
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