何のための "日誌" か、あるいは "ブログ" かと考えることがしばしばある。まあ、もちろんいろいろな人々がそれぞれの思いで展開していいわけだし、それにとやかく言う必要はなかろう。自分の場合にはどうなのか、ということなのである。
以前にも書いたことがあるが、日誌を書くということは決してラクなことではない。むしろ、ラクであってはいけないとさえ感じている。
ラクであるスタイルの一つは、 "書く前から" 大半の内容が認知されてしまっている場合である。これは、決して "頭脳が明晰な状態" にあるからなんぞではないのである。それは多分、 "実際に書きたいこと" を、 "通りが良い" 内容、形に丸めて済まそうとしているからなのであろう。だから、裏返しに言えば、これを "頭脳が明晰な状態" にあるからだと言えないことない。世間で言われる "頭が良い" とは、わかり切ったことを立て板に水のごとく表現することなのであろうから、である。まあ、 "紋切り型" の発想で、 "紋切り型" の言葉遣いに徹するならば、片目つぶって3秒で、文章なり、喋りなどは "完成される" はずであろう。それに意味があるのかどうかはまったく別問題ではあるが......。
もうひとつラクであるスタイルとは、これは滅多に遭遇しないことではあるが、まるで、 "巫女" か何かになってしまったかのように、 "自動的に" あるいは "湯水のように" 書こうとする内容が溢れ出て来る場合なのである。噂で聞いていたことはありながら、ついぞ経験できなかったが、振り返ってみると、あの時がそうだったかと思い返すことが二、三度はある。
しかし、大半の場合は、 "書きたい" と感じている内容は掴みどころがなくて難航し、タイムアウトとなって読み返してみると、違う! しかし、しょうがないか......、と妥協する日々の連続なのである。
こういう経験を続けていると、 "書こうとする自分" と、 "それを読む自分" とはまったく別人のようであり、そんなことってあるのだろうか、と自問するわけである。
だが、どうも、これが真相のようである。そんなことを解説する一文があったので、如何に引用しておきたい。
<私たちの脳の中にある図式と、世界の中の現実とのずれ[傍点]こそが、私たちが想像的であり続けるために必要な一つの栄養なのである。......(中略)
ずれ[傍点]の感覚は、必ずしも環境や他者との出会いだけを通して生み出されるのではない。時には、自分自身との「対話」を通しても、ずれ[傍点]の感覚が生じることがある。
私たちの脳は、そもそも出力を行う環境なしでは情報のループが完成しないような構造をしている。たとえば自分が何を喋りたいのかは、実際に喋ってみないと判らないことが多い。......(中略)
同じことは、文章を書くことにもあてはまる。文章を実際に書く前には、私たちは自分がいったい具体的にどのような文章を書くつもりなのか、わからないものである。......(中略)具体的にどのような内容の文章が自分から出てくるのか、こればかりは実際に書いてみないと判らないのである。......(中略)
何かを喋ったり、書いたりするといった運動出力をする大脳皮質の運動野や運動前野を中心とすして構成される「私」と、その運動出力の結果を知覚する大脳皮質の感覚野を中心とする「私」は、別の「私」である。日記を書く私と、それを読む私は違う私である。......(中略)何かを表現するということは、必ずしも他者とのコミュニケーションだけを目的とするのではない。何かを表現するということは、実は、自分自身とのコミュニケーションでもある。運動出力をする「私」と、感覚入力を受ける「私」は異なる「私」なのである。>(茂木健一郎『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』 2005.04.05 PHP研究所)
この辺の "脳機能の構造" を踏まえてみると、日ごろの悩ましさがわずかに氷解する思いがするのである...... (2008.06.20)
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