昨日は、 "思い通りにならないこと" をより多く自覚していると見える現代人の心の実際について書いた。つまり、人々の "脳内" の "思い" と、決してその "通り" には運ばない現実との "ずれ" のことである。
これだけ現代の世の中は超便利になっているにもかかわらず、実のところ、われわれは万事が "思い通り" になっているとの自覚をする以上に、 "思い通りにならないこと" が多いと嘆いているのではなかろうか、という事実なのである。
そして、ことによったら "思い通りにならないこと" の最右翼はと言えば、生活環境の諸々のモノであるよりも、要するに "他者" としての人間自体なのではないかと思える。
"他者" は自分自身と同様に個別の "意思" を持つ存在であるだけに、 "思い通りにならないこと" は言わずもがなの事実である。そして "健全な" 人間社会においては、この事実が基本的出発点として踏まえられ、個々人もこの事実を踏まえつつ "他者" との "関係技術" を "訓練" していくものであったはずだ。それが、個人の成長期における重要な学習項目だったはずだし、大人側にとっては重要な教育項目でもあったはずであろう。
と言うのも、 "他者" との "関係技術" の訓練とも呼ぶべきものは、交際術と言って済ませられるほどに軽いものではないように思えるからだ。要するに、常に "意思" と "意思" との "衝突" が潜伏しており、その "衝突" を聡明なかたちで回避しつつ "意思疎通" を図るという行動は、困難であるとともに大変な気力やエネルギーを要するもののはずだからである。だからこそ、個人の成長期における重要な "訓練" であり続けたわけだ。
ところが、この辺のいわゆる "人間関係" において、現状はかなり惨憺たる問題状況を露呈していそうである。何がどうだとの具体例を挙げれば切りがなかろう。
にもかかわらず、あるいは、だからだと言うべきなのかもしれないが、現代のビジネス環境やIT環境は、現代人たちが苦手とする "人間関係" にまつわる煩わしさを、それらを除去することが有力なビジネス・チャンスだとばかりに立ち向かってもいる。いわゆる "個人化" 機器類がそれであるし、またモノの販売における人の介在を排した "自販機" も好例となろう。
極論をすれば、現代環境では、商品交換が行われる市場経済の場と構造が、人間と人間との複合的な関係の場である社会に取って代わってしまったかの観があるわけだ。複合的な "人間関係" は、市場経済での "売買契約関係" に置き換えられてしまったようにさえ見えるわけだ。
"人間関係" のエッセンスであるに違いない "他者" と向き合うことは、モノとしての商品に向き合うことや、商品の性能と価格とのバランス関係に向き合うことに、見事にすり替わってしまったと言うべきであろうか。何をどう考えればいいのだろう......。
実は、昨日の時点で引用しようと考えていたのだが、今日の話題の焦点である "他者" との "関係技術" という点で以下の引用文を掲げておきたい。
このような「ずれ」との出会いを通しての脳の活性化は、人間が身体を持って、外の世界と交渉しているからこそ生じる。脳の認知プロセスの自己組織化を促す上での身体性の意義は、興味深い「ずれ」を提供することを通しての脳の活性化にあると言ってもよいのである。身体とはすなわち、偶有性のセンサーであると言ってもよい。
この点にこそ、創造性のツールとしてのコンピュータの限界がある。コンピュータには基本的に外部性が存在しない。......(中略)
コンピュータにばかり向き合っていることの危険性はここにある。......(中略)コンピュータとばかり向き合っていると、脳が創造的であり続けるために必要不可欠な、現実とのずれ[傍点]の感覚、ノイズの混入が起こりにくくなってしまう。......(中略)
自分の頭の中で「こうなるだろう」とあらかじめ予想することができない他者、外部と接することは、ある意味ではしんどいことである。しかし、そのしんどいことを敢えて行い、さまざまなノイズ、ずれ[傍点]に接することでしか、人は創造性に必要な刺激を得ることができない。......(中略)
自分とバックグラウンドが異なり、異質な意見を持つ他者と向き合うことはつらいことである。しかし、そのような他者の存在を許容し尊重することが、巡り巡って自分の想像性を涵養するための大切な「外部性」を提供する。......>(<実際にやってみることの大切さ>という章より。茂木健一郎『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』 2005.04.05 PHP研究所) ...... (2008.06.22)
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