いろいろと "思い通りにならないこと" が多くて、苛立ちやストレスとは手が切れない日々である。多くの人が、ますますそんなことを強く感じているのではないかと察する。確かに、尋常な人々の "思い" から理不尽に逸脱した事柄が、社会にもそして政治にも多々引き起こされているので、むべなるかな、と感じる向きもある。
しかし、やはり自分も含め、現代人はことのほか "思い通りにならないこと" を気にし過ぎると見えないこともない。短気で怒りっぽくなったかのようである。これもまた、自分をも含めた話であるが......。
一体どういうことなのかと考えてみると、要するに、主として頭の中で( "脳内" で)生活をしているからなのではないかという思いに突き当たる。言うまでもなく、人の "脳内" にで構築されている世界は、複雑多岐にわたり、捉えどころがなかったりする現実世界とはことなり、かなり合理的であり、またデジタル情報的であるのだろう。少なくとも "意識" の次元での"脳内" 世界はますますコンピュータが構成する世界の様相に近づいてしまっているのかもしれない。
これにはやはり根拠があり、現代人(都会人)は、サイエンスやテクノロジーによって自然が追放され、人工的、合理的に改造された生活環境で日ごと生活をしているわけであるから、それらを日常環境とする人の "脳内" には、ますますシャープな切り口のデジタル情報的世界像が組み立てられてしまっていることになるのだろう。加えて、日常生活環境へのデジタル・テクノロジー、コンピュータの浸透は、環境と人々の "脳内" 世界の双方を劇的に変化させている。
ところで、現代的なデジタル生活環境と、"脳内" の世界に、共通している点はと言えば、何事も "合理的で、便利で、スマート" だということになりそうだ。だから、自然現象に特徴的であろう、複合的で、理解しにくく、ダサイとも見えるような事柄に対しては、馴染めないばかりか、ほとんど生理的ともいえる拒絶反応を示すことになるという点も共通していそうである。
ところが、人間の住む世界は、たとえ超近代的な生活環境であっても、人間自体が "半自然" の存在である以上、何もかもが "合理的で、便利で、スマート" というわけにはいかないに決まっている。しかし、それらを寛容に許容していたであろう、従来の人間の感性(慣性)は、もはやかなりの程度置き去りにされてしまっているというのが現状なのではなかろうか。
以前にも何度も書いてきたが、増え続ける "幼児虐待" (高齢者虐待も......)というのは、要するに、合理化・文明化される以前(あるいは喪失)の、あるがままの自然を引きずった人間というものを感覚的に拒絶するアクションにほかならない、と思える。
そして、 "虐待" アクションに至らずとも、われわれは、デジタル的日常環境やデジタル化され切ったかに見える "脳内" 世界からわずかでも "ずれる" 現象を、強く忌避するようになってしまっているのであろう。実は、 "思い通りにならないこと" というのは、往々にしてこうしたことであるのかもしれない。
デジタル的情報環境という日常環境の中で、 "一秒のずれ" さえも許容しないシステムに慣れさせられた人々は、元来、 "一秒のずれ" なんてものは問題にすべきことではないはずなのに、それに類する些細なことを、さも "思い通りにならないこと" と称するようになってしまったのではなかろうか。
そのうちに、トップ・アスリートたちだけの基準であるはずの "0.01 秒" のような差異が、まことしやかに問題とされたり、それを叶えられないことを "思い通りにならないこと" だとこだわる人々も多々登場してくるのだろうか...... (2008.06.21)
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