芥川龍之介の小説『トロッコ』という作品はよく知られている。
主人公<良平>が八つの時、<小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事>が始まり、<良平>は大層興味を抱く。やがて、工事現場の<土工>の気まぐれで、<良平>はトロッコを押したり<土工>と一緒にそのトロッコに載ったりすることがてきるようになる。
有頂天になってかなり遠出をしてしまった<良平>であったが、日もとっぷりと暮れかかる頃、<土工>が口にした、
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
という一言で、<良平は殆(ほとん)ど泣きそうに>なる。しかし、<泣いている場合ではない>と思い、来た道を<どんどん線路伝いに走り出>し,心乱れるままでやっとの思いで村の自宅にたどり着く。 そして、小説は以下のように結ばれる。
< 彼の家(うち)の門口(かどぐち)へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲(まわり)へ、一時に父や母を集まらせた。殊(こと)に母は何とか云いながら、良平の体を抱(かか)えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜(すす)り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣(わけ)を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、............
良平は二十六の年、妻子(さいし)と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆(しゅふで)を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労(じんろう)に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。............>(青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/ より)
自分がこの小説を時々思い起こすのは、<が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?>という箇所が妙に印象に残っているからなのだ。
大人となった<良平>の記憶には、初めて味わった泣くほどの心細さ(薄暗い藪や坂のある路......)が鮮明な残像として沈着し、それと対比する明かりの下での父母や近所の人たちの姿が残り続けたのであろう。そして、この残像としての記憶を、<良平>は<全然何の理由もないのに?>蘇らせることになる。それは日常生活に生じるちょっとした "スリット" を通して垣間見る "貴重な何か" であるような感じなのかと想像できる。
茂木健一郎氏の一文「牛乳とクラクション」は、なぜかこの<良平>の意識のありようを思い起こさせた。茂木氏の「牛乳」の逸話は楽しいのに対して、<良平>の残像は辛いという差異があるにはある。
しかし、人の意識というものが、眼前の "日常生活のシークエンス(sequence)" だけに縛られることなく、 "脳内の深層" と交錯(<自分の意識ではコントロールできない奔流に注意が行く>)し続けるものだという点では概して同じなのだろうと思えた。
そして、 "日常生活のシークエンス(sequence)" に関わる意識のはるか下層で静かに待機している "残像たち" がとても愛しく思えるのである...... (2008.06.24)
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