かなり難しい問題、どう考えても納得がゆく思いとはなれない問題がある。
いや、今のご時世はそんな難問だらけではないかと言われれば、それはそうなのだが、それでも、 "この問題" は破格の位置にありそうではないかと感じている。
大体、難しい問題というのは、問題自体が難解だというよりも、その問題に直面する者の "演算装置" の側に特別な事情がある場合が多いのかもしれない。
それは、たとえば "先入観" であったり "偏見" であったりするものが、 "演算装置" を正常に機能させない、というようなことである。そして、そうした "先入観" や "偏見" が強い強度、長い期間の生活実感と一体化された場合には、なおのこと始末に負えないということになるのであろうか。
回りくどい言い方ではじめてしまったが、 "その問題" というのは、なぜ "右肩上がり" でなければならないのか? そうでない状態になぜ価値が見出せないのか? というような問題なのである。
と言っても、経済現象のことだけを念頭に置いているわけではない。とりあえず、わかりやすい例だと思えるから "右肩上がり" という表現を使った。GDPにせよ、株価にせよ、通貨価値にせよ、主な経済指標は軒並み "右肩上がり" であることを止めつつある。それは一国だけの事情だけではなく、概して言えば、グローバルな広がりでそうなりつつあるのではなかろうか。 "CO 2 削減" という待ったなしの課題をも意識するならば、なおの事そう言える。
経済活動は、従来から延々と続いてきた "右肩上がり" 信仰とでも言うべき固定観念を、このまま維持していくわけには行かなくなっている、というのが大極的な見方となっていそうではないか。
しかし、この "右肩上がり" 信仰の軌道修正は決して順調ではない。 "CO 2 削減" 課題が声高に叫ばれつつも問題含みで推移しているのもこの点を裏書きしているのかもしれない。こうしたマクロで複雑な問題を単純化してしまうのは、いささか抵抗を感じないわけでもないが、言ってみれば、 "右肩上がり" 成長ではない "別の成長" のあり方やその価値とでもいうものが理解しにくい、という事情が一方に存在するように思える。
ここで、にわかに、話題の視点を経済の領域から他の一般的領域へと横滑りさせてしまうことになるが、 "右肩上がり" 信仰というものは、経済的数値のそれが象徴的ではあっても、それに限られるものであるはずがない。
たとえば、人の一生を考えても、生まれてから成人に向かっていろいろな観点でパワフルとなってゆく成長期や、青春期というのは、まさに "右肩上がり" 現象だと考えられる。また、パワフルさの内実である個々の身体的、精神的パワーにしても "右肩上がり" こそが価値あるものと見なされているのはいまさら言うまでもない。
現実世界では、すべからく "右肩上がり" こそが価値だと定められ、馴染み、加えてその逆の傾向は避けるべき否定的な現象だと括られてきたわけだ。
ところが、現時点で世界全体が遭遇している状況はと言えば、 "右肩上がり" 傾向の持続困難さと、高齢化時代状況のような "右肩下がり" 傾向の影が濃厚となっているのが実情であろう。しかも、前述の深刻な緊急課題、 "CO 2 削減" 問題まで浮上して、とても "右肩上がり" 信仰が継続できる状況ではなくなっている。
にもかかわらず、 "右肩下がり" 傾向に見合うような代替的価値観めいたものがほとんど何も見当たらない、というのが残念ながらの現状のようである。それは、青春を謳歌する価値観は豊富にあっても、老齢期の人生の充実を正当に価値づける視点が乏しいことと同様だとも言えそうだ。(続く)...... (2008.06.30)
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