問題山積で身動きが取れないようなこの国の現状を目の前にしていると、 "構造的無責任主義" とでもいうような言葉が浮かんでくる。
逆にあの "植木等" が掲げていた "無責任" という看板が、可愛くまた懐かしく思い出したりする。個人的な "無責任" アクションが、シャレになっていた時代というのは、それだけ全体が "責任感" に浸されて動いていたということになるのだろうか。あるいは、上り調子の時代環境は、そんなアクションくらいでガタつく脆弱さを持ってはいなかったということなのであろうか。
ところが現状は、誰もが他者を "無責任" という言葉で非難し、攻撃するようなとげとげしい風潮になっていそうである。 "金持ち喧嘩せず" ということわざがあるが、現状はまったくその裏返しであり、 "貧すれば喧嘩腰" (こんなことわざは聞いたことはないが)といった雰囲気かもしれない。
いや、 "喧嘩腰" になっているのは小さな私生活の場だけであり、韓国国民のように社会問題に対して激しく抗議しないところが、この国の国民の "ぬえ" のような体質なのであろうか。
<公害、薬害、アスベスト被害など企業が想定しなかったり、目をつぶったりしてきた問題が後々大きな被害をもたらし、その負担を企業がせず、政府が放置し、地域や消費者に押し付ける問題を外部不経済という。温暖化問題は地球規模の外部不経済といえる。>(「温暖化の外部不経済」/経済気象台/朝日新聞 2008年7月11日)
"構造的無責任主義" とでも言うような現状の惨憺たる問題状況を考察しようとする時、この<外部不経済(外部負経済)>というタームが、事態を実に有効に説明するかに思えたのだ。
もちろん "地球温暖化" 問題はまさに、グローバリズム経済における<外部不経済>の所産以外ではないと思われる。各国の経済主体が、市場での成果を上げるために、市場の存在ではない自然環境資源などを "無責任" に利用(破壊)し、その結果を放置し続けてきたことによってCO 2 が過剰に蓄積されてしまったわけだ。
各国経済がその発展のために、バーターで自然破壊を進めてしまった環境汚染という、いわゆる "公害" が問題視された時点で、この<外部不経済>的仕組みを "内部化" して制御することができていれば、現在のような "手遅れ的状況" には至らなかったのであろう。しかし、死んだ子の歳を数えてもしょうがない。
ただ、現在の<カジノ資本主義>(「サミット後―10億人の貧困をどうする」/社説/朝日新聞 2008年7月11日)は、どうも<外部不経済>という範疇の問題を "内部化" しようとするどころか、見て見ぬふりの放置と黙殺を重ねることで、ますます拡大させているような気配を感じてならない。
<「ボトム・ビリオン」という言葉がある。最底辺の10億人。1日1ドル未満の収入で暮らす途上国の最貧困層のことだ。世界人口の6分の1を占める。
原油や食糧の高騰の波が、日本をはじめ世界に広がっている。途上国の農村や都市スラムで生きるボトム・ビリオンの人々にとっては、これは自らと家族の生存にかかわる、文字通りの脅威である。>(同社説)
また、現在、この国で発生しているさまざまな社会問題 ―― それらを仮に "構造的無責任主義" の産物だと目しておきたいが ―― は、どうも、本来的には "経済市場の内部" 的存在であるはずのものを、放置と黙殺で "外部化" し続けているように見えるのである。
それは、かつての資本主義が自身の存立の前提として展開した "社会政策" や "社会福祉制度" の実体を極端に軽視し始めていることを指している。その理由としては、グローバリズム経済下での "国際競争力強化" という視点や、 "財政難" という言い訳が掲げられたりするが、いずれにしても労働市場の問題というのは立派な "内部経済" の問題なのである。これを、 "外部化" したかのように扱うのは、やはり経済構造に "歪" を増殖させる以外ではないのではなかろうか。つまり、一国の将来的な労働力や人材の、決定的摩滅という問題である。大量の若い世代を、 "フリーター、非正規社員" に追いやる現状の "構造的無責任主義" は、必ず将来、そのツケで困惑することになりそうである...... (2008.07.12)
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