喉が渇いたから飲むというよりも、頭の働きがすっきりすることを期待して、つまり "カフェイン" の効能を期待しているのかもしれない。
昨今はさほどその効能を自覚することはないが、たまに "コーヒー" を啜ったことで眠気が解消されたり、何となく頭の感じがすっきりとしたかのような気分となることがある。それが、 "コーヒー" を飲むことへの動機付けとなっているのだろう。
確かに、 "カフェイン" は眠気を抑えるとともに、気分の高揚感を促す効能がありそうだ。だから、ビタミン・ドリンク剤や清涼飲料水にもこの "カフェイン" が調合、含有されている。販売側は、顧客側に当該の商品を欲するような多少の "依存癖" が生まれてくれれば有難いとでも考えているのであろうか。
こんな "依存性の薬物(?)" に目を向けるのは、やはり、 "禁煙" 継続中(5カ月目)でまだ "ニコチン" への未練が残っているからなのかもしれない。さすがに、吸わないことへの "自然さ" が身に付いてきたようではあるが、頭や気分が疲れた際、ふと、こんな時のタバコはウマかったのかなぁ、なんぞと後ろ髪を引かれる心境となったりする。
最近思うのだが、自分の気分を自在にコントロールできたらどんなに良いであろうか。特に、放っておけば沈みがちとなる気分を、 "内発的に" 持ち上げ、高揚させることができたならどんなに有難いかと思う。
こうした願望は、大なり小なり "鬱" 気分の傾向があるとされる現代人にとっては共通するところなのかもしれない。
ただ、現代人は自身の気分を調整するのに、 "内発的に" 何か努力をするというふうではなく、何かを "服用" することで安直に結果を出そうとするかのようである。 "コーヒー" 、タバコ、アルコールなどは最たるものであるが、 "サプリメント" 関係から、まさに "薬物" に至るまで、安直に頼ろうとする対象は尽きない。
確かに、それを "服用" するならば、 "にわかに" 気分が高揚し、人が変わり人生が変わったかのように積極的、行動的人間になれるのだとするならば、そうしたものへの関心を持ったとしても不思議ではあるまい。
ただし、ここで知っておくべきことは、人間の気分を "外在的物質" によって作用し続けると、しかも、好ましい気分に誘うために行うならば、それは確実に "習慣性" となり、 "依存性" を生み、その結果、自身の気分というものがますます自分のものではなくなるということであるに違いない。
もちろん、ある種の気分となることを念じただけでそんなに気分になれるというおとぎ話を願っているわけではない。元気な気分となれとか、愉快な気分となれとか、あるいはやる気が満ちた気分となれと自身の脳が自身に命じて、現にそうなれればどんなにか有難いかとは思う。
しかし、それは所詮無理なことであろうし、逆にそんなことが簡単に可能となるならば、それは脳による "中央集権(?)" の体制だということになり、きっとおかしなことになるのだろう。
人間の気分の由って来るところは、恐らく、人間の身体全体(内臓を含み)なのだと思われる。したがって、自身の気分を調整しようとするならば、運動をするなぞしてその全体への働きかけを行う以外にはなさそうだ...... (2008.07.26)
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