われわれは無意識のうちに "答え" を求める "習性" が身についてしまっている。そして、できれば据わりの良い "正解" に辿り着くことを望み、 "ピンポーン" と鳴り響くものを待っているようだ。おまけに、仮に "ピンポーン" と聞かされたからといって、 "正解" に辿り着いたという確固たる保証があるわけでもなかろうに、それで妙に落ち着いてしまい、一件落着の気分となってしまう。
まあ、気分がそうなるのは良いとしても、そこで "思考停止" にまで至る "習性" は、やはり一度は再検討すべきなのかもしれない。
こうした "習性" を身につけてしまった社会的背景には、やはりこの国の歴史的文化風土が潜んでいたと言うべきなのであろうか。
つまり、この世界には答えがある、 "答えがある世界" という暗黙の発想のことであり、具体的に言えば、 "西欧社会、国家" をすべての "答え(基準)" として追い求め、キャッチアップしてきた、日本のそんな近代史のことなのである。
とりあえず、こうした歴史的経緯が、教育制度とその実施を媒介にして、現代のわれわれの思考過程に大きな影響を及ぼし続けてきたのだろうと思われる。要するに、思考というものには "答え" があるということ、あるいは、 "答え" に辿り着くことが思考なのだとする発想である。
多分、こうした発想は、 "西欧社会、国家" を "答え" として邁進して来た近代以前にも、中国・インドの仏教文化などを "答え" として "キャッチアップ" し続けて来た前近代時代として存在したと思われる。
そう考えると、日本の文化の暗黙のうちの大前提は、 "初めに答えありき" だったのかもしれない。まあ、それが言い過ぎだとしても、 "答えがある世界" を妄信してきたのが伝統であったのだろうか。
前置きが重くなってしまった感があるが、念頭に置いている事柄は、 "答え" が見出しにくくなった時代環境のことであり、 "答えのない世界" とでも言うべき現代状況のことなのである。
よく言われるように、戦後の日本経済は、西欧、米国に "追いつき追い越せのレース" を首尾よくこなし、いつの間にかトップに躍り出て、真似るべき "答え" を失ってしまった。 "答えのない世界" への直面である。
そして、この点は日本ばかりではなく、今や、世界全体が未曾有の新開地に突入したことで、いわば、世界全体が "答えのない世界" に遭遇することになっていそうである。
だがそんな中で、永らく "初めに答えありき" の姿勢だったかもしれないこの日本という国こそが、とりわけ困惑気味となっているのかもしれない。そんな、印象が拭いきれないのである。
"キャッチアップ" 路線から脱却し、創造的な前進を! と叫ばれ続けてきたのがここ数年であったかに思う。つまり、 "答えがある世界" から、 "答えのない世界" への対応如何、ということになろう。
しかし、相変わらずこの課題は重みを増し続け、今や、国や社会、企業のみならず、個々人の日常生活の次元においても意識せざるを得ないような、そんな感触を覚える。
こんな問題を早くから指摘していたのが大前研一氏であったかと思う。同氏の見解で注目したいものを以下に引用しておきたい。
<21世紀は答えのない世界です。でも、恐怖心を持ったらダメです。そして、これが答えではないかと、8割、いや6割程度分かったら、やる勇気を持つ。ここで「勇気」が出てきます。やり抜く力、執念、これらは昔から変わるところはありません。答えがないと勇気が出てこないという日本人から、答えがなくてもやってみる勇気を持つ日本人へ変わらないと。全員100%同じ答えを言ったところには、商売のチャンスも何もありません。>( itpro.nikkeibp.co.jp 大前研一が2006年10月25日に「『答えのない世界』を生き抜く鉄則」と題して行った講演より )
<......21世紀に最も重要なのは、答えがなくても自分はこうだと思う、と言えることです。しかも単なる意見ではなくて、証拠とか、データとか、分析に基づいて論旨を展開した結果、自分はこう思うと打ち出す。クラスに20人いたら、20人が違うものを持ち寄ってきて、じゃあ、どうしようかということを考えられる。これが非常に重要な21世紀を生き抜くスキルになります。
21世紀はリーダーシップというものがお金を稼ぐ種になるわけです。なぜかというとみんな答えがないですから。僕はこう思うと、君はどう思うかと、人の意見を聞くんです。その人の意見を聞いたときに、なるほどそれだったらこうしようと、どっちの意見でもないものを出す力、これが極めて重要になります。これは新しいものを合成する力、シンセサイズと言います。そういうことができる能力を持った人がこれからの時代にリーダーシップを持ちます。>(同上)
コメントする