宮崎駿監督が、アニメーション映画の脚本に当たる "絵コンテ" 制作に腐心しながら、多少苛立ちを伴いながら「面倒くさい、面倒くさい......」と呟いておられた。
一瞬、 "らしくない" という印象も受けたのだが、次の瞬間、 "ああ、やはり監督の内的世界でのイメージは豊穣過ぎるほどに熟しているのか......" と感じたものだった。
昨夜のTV番組(『プロフェッショナル 仕事の流儀 宮崎駿のすべて
~ 「ポニョ」密着300日 ~』 NHK総合 2008年8月5日[火] 22:00~23:28)のことである。
番組の後半では、宮崎駿監督が全編の "絵コンテ" をほぼ完成させながら、エンディングのイメージに悶々として悩み続ける姿が追跡されていた。
番組の解説によれば、ハッピーエンドに至るその終盤に、今ひとつ、自身が納得し切れる "エピソード" が欲しいと考えておられたようだ。それが "インスピレーション" か "天啓" に値するような重みを伴って訪れるのを、全身全霊で耐えて待ち構えておられるというような意味のことが述べられていた。
もちろん、同監督のそれとは比較にならないわけだが、それを推測する程度には、自身にも似た経験がないではない。おそらく、真似事であれ "創作" 活動に携わった者であれば、 "そうした経緯" というものがあり得ることだけは類推できそうである。
いや、それが "創作" 活動(創造)に身を投じる者にとっての "苦痛と喜びの合金" 以外ではない、と言えそうか、身の程知らずの思いではあるが......。
一昨日は、大前研一氏のビジネス地平での表現、『答えのない世界』について考えてみたが、思えば、芸術領域などの "創作" 活動(創造)にあっては、 "答え" なんぞは端から無いと言えそうである。そこまで言い切れば問題もありそうだが、少なくとも "吊るし" のごとき "答え" なんぞは先ず無いはずである。
あるとすれば、 "自身の内的世界で熟すイメージが下す許諾" 以外ではないのかも知れない。しかし、こいつには何の確約も保証もあるわけがなかろう。大仰に言うならば、絶対孤独の中での営為そのもののはずである。
その意味では、芸術領域などの "創作" 活動(創造)に身を置く者たちは、端から『答えのない世界』という荒野を独り突き進む人種なのであろう。その孤独な出陣にいくらかでも資すればと、先人たちの技を必死に盗み取る修業を済ませるのであろう。
宮崎駿監督は齢67歳だそうだが、肉体的には峠を越している。番組でも、仕事の合間にマッサージ師にヘルプを受ける姿が映されてもいた。
だが、同監督の冒頭の呟き、「面倒くさい、面倒くさい......」が意味するところは、歳のせいなぞではないと思われた。肉体によって具現するには、余りにも膨大かつ複雑な存在となり過ぎた内的世界のイメージ、『答えのない世界』が、杓子定規な制約(制作スケジュール)の前ですねて言わしめた言葉であったのかもしれない。
あるいは、肉体を媒介にする技量を隔てて確信されてしまう、そんな内的世界のイメージの存在感の重みが、思わず口を衝いて言わしめた言葉だったのかもしれない...... (2008.08.06)
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