いつも思う(警戒する)ことの一つに、どんな情報をどう正確に入手するのか、という点がある。
もちろん、事実に反する誤った情報を吟味することは重要である。だが、大体、胡散臭い情報というのは、それに接した時に直感的に違和感を抱いたりするものだ。
<開会式で花火がCGだったり少女が口パクだったりしたことに、12年開催地ロンドンがある英国メディアは驚きと批判を込めて大きく報じた。>( asahi.com 2008/08/15 )とあるが、この "開会式" は何かヘンだぞ? とは観ていて感じたものであった。( c.f.当日誌の「真夏の夜の夢(?)のようなオリンピック開会式 ......」 [2008.08.09] )
"足跡花火" が<CG>だとまで洞察するには至らなかったが、これじゃ、日本の伝統芸を担う花火師プロフェッショナルも顔負けだなぁ、と妙に違和感を覚えたものだったし、 "口パク少女" の場合は、口の動きが空々しいことを感じたとともに、一体マイクはどこに付けているんだ? という疑問も抱いた。よくもそこまで "偽装" をやってくれたものだと、こちらが "口パク" の開いた口がふさがらない。
しかし、こういった発信情報自体の "偽装" も大いに問題だが、 "どんな情報" が受け手側に届けられるのか、といういわば発信される "情報の設定、選択、絞込み" という局面にも慎重に注意を向けるべきなのだろうと常々感じている。
というのも、いくらインターネットのブログが普及したからといって、一般人はそう簡単にニュースソースの現場に近づけなかったりするのが普通だからだ。つまり、制限されたマス・メディア関係者にしか流されない情報というものがあるのが歴然とした現実だからである。いわゆる "報道規制" とその延長のことである。
北京オリンピック(の開会式)にしたところが、メディアの出入りを制限したり、ネットでの送信などに不透明な介入(?)があるとかないとかと伝えられてもいる。
"どんな情報" をマス・メディアが伝えるのかという、それなりに由々しき問題に関する記事を目にした。
<マスコミ関係者に聞いたところ、どんなトピックを選ぶか、その重みをどう付けるかを「アジェンダ設定」というそうだ。記事の内容だけでなく、何が選択されるかを通して、私たちは自分たちが住んでいる国や世界の情勢を理解することになる。つまり、情報の重みは自分の判断ではなく、まず新聞社やテレビ局の判断に任せられてきたのだ。>(日経ネット Plus / 石黒不二代・ネットイヤーグループ社長「『自分嗜好』の人たちが増える世界」 2008-08-15 )
これはこれで十分に関心を寄せてよい問題だろうと思う。<マスコミ関係者>がいつも受け手一般を正しく代表するとは限らないからだ。いやむしろ、<アジェンダ設定>にさまざまな点での "ブレ" がありそうだからである。それはともかく筆者は論を進める。
<ところが、インターネットの出現によりアジェンダ設定の担い手が大きく変わろうとしている。ネット上には、新聞やテレビが選ぶ数とは比べものにならないほど大量の情報がある。その過多ともいえる情報量の中から、私たち自身がアジェンダを設定し、情報の重みを判断するようになる。>と。
確かに、この点は、ネット普及時代を "ばら色" に描く人々がしばしば口にする点であり、その可能性はなくはない。しかし、そう "ばら色" でもない現実こそが見つめられなければならないはずだ。その点に関する懸念一つを筆者は次のように指摘していたのである。
<このアジェンダ設定の担い手が誰であるべきかを議論するつもりはない。しかし、その主役が従来の媒体の作り手から受け手側に移行する流れは間違いなくあるし、その結果として人も世界も変わっていくだろう。受け手は意識して広く情報を求めようと考えなければ、自分の嗜好に合う情報ばかりを集めてしまう。そんな人たちが増え、価値観の偏った人たちの集まりとなった世界はどんな性格を持つのだろうか。そこには、誰でもが共通に感じられる一様な幸せというものはますます存在しなくなるのだろう。>(同上より)
発信側に回った者たちのセンスや能力がジワジワと問題になり始めているのかもしれない...... (2008.08.15)
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