駅の電光掲示板の上に逃げ込んで不安そうにしている "サル" の写真が何とも哀れさを誘った。場違いに決まっていようが、そんなことをさえ思うはずもなく、ただ見知らぬモノばかり、警戒すべき人間たちの姿だけに取り囲まれ、さぞかし恐怖感に苛まれたものであろう。
<朝の渋谷駅にサル、約2時間後に新宿方面へ逃走
20日午前9時45分ごろ、東京・渋谷の東急東横線渋谷駅の構内にサルがいるのを、巡回中の警備員が発見した。
警視庁渋谷署の署員ら数十人が網などを使って捕獲に当たったが、サルは正午ごろ、網をかいくぐって新宿方向に逃げた。
東急電鉄などによると、サルは体長60センチ程度。ニホンザルとみられ、首輪などは確認できないという。
警備員らに追い立てられ、改札前の天井からつり下がる電光掲示板に上ったサルの周辺には、一時人だかりができ、携帯電話のカメラで"大捕物"の様子を撮影していた若い女性らからは「かわいい」との歓声も。......>(2008年8月20日12時21分 読売新聞)
<「かわいい」との歓声>というのもどうかと思えた。ご当人たちの "頭" の方がはるかに "かわいい" と言うべきか。
単独で、人の世界に迷い込んだ動物が、どんなにか心細く恐怖感に支配されるものか、容易に想像されることではなかろうか。ショッピング・ウインドウを通して見る縫い包みのサルとでも感じたのであろうか。情けない話である。
見るモノ、聞くモノを、概して "命や心なきモノ" としてしか感じられないのが哀れな現代人なのであろうか。例の秋葉原での惨劇の際にも、無造作に<携帯電話のカメラ>を向けていたと聞いている。
何があったって、対象の存在に共感したり心を通わせようとする感性を引き摺るのが人間だという "定番" は、もはや "神話" となってしまったのだろうか。そんな風潮が実に寂しくて怖い気がしている...... (2008.08.20)
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