現代という環境が、人と人との "コラボレーション(協働)" を難しくさせているという点は、しばしば指摘される点かと思う。 "個性化・多様化傾向" のひとつの結果だと言えないこともなかろうし、社会を挙げた "競争の激化" の、その結果だと言うこともできるかもしれない。
もちろん、 "個性化・多様化" や "競争関係" が、そのまま "コラボレーション(協働)" を困難にさせる原因だなぞとは言えないだろう。 "個々人間の意思疎通" 状況が十全に機能していれば、何の問題もなく "コラボレーション" も可能となるはずだ。
とすれば、問題は "個々人間の意思疎通" 状況だということになりそうだが、この部分がまともに成立するためには、 "共通の価値観" とまでは言わないまでも、 "共通の情報" とか "共通の状況認識" というような、 "共通の土俵" というものが不可欠なのかもしれない。
現在のような "超・個人化" された生活環境となる以前の社会にあっては、人々はみな大なり小なり共通した、変わりばえのない生活環境で過ごし、そのことが、何がしかの "共通の土俵" を形成することになり、異なった感覚や見解がぶつかり合ったとしても、 "共通の土俵" の側面がそれなりの "折り合い" めいたものを提供してくれたのかもしれない。異なった見解を持つ相手に対する想像力が、その "共通の土俵" によって支えられていたと言えるのかもしれない。
しかし、現時点の社会環境は、生活の場におけるそうした "共通の土俵" 的意味を持つものをことごとく壊してしまったと言えそうだ。地域コミュニティなぞと小難しいことは言わないまでも、個人志向の生活様式がますます強く追求され、日がな一日、他者と接する機会もなく過ぎることとてめずらしくなくなったと見えなくもない。
そうした孤立個人の行動を支える生活手段(個人で何でも購入できるコンビニ、個人使用のツール群......)が蔓延したこと、それが大きな理由なのであろう。
が、今ひとつ注目すべきは、 "情報入手" 自体が、個人的に対処可能となっている点を見過ごすべきではないように思える。
特に、この点は子どもたちの場合には、従来であれば極端に言えば、家庭であれ、学校であれ、親や年長者、教師などとの接触を通して果たす以外に選択肢はなかったかもしれない。そして、逆に言えばこの部分が、良かれ悪しかれ "情報" に人格的な厚みを付随させていたであろうし、他者との人間関係を必要視させていたようにも思える。
しかし、まさに "情報化" の現代は、商品市場社会、マス・メディアからインターネットに至るまで、その気さえあれば(いや、その気がなくとも)小さな子どもであっても個人的に情報入手を果たすことは容易いこととなっているはずである。
ところで、こうした状況に問題はないかと気にとめた時、どうもちょっとした "落とし穴" が隠れているような気がする。
結論から言えば、妙な表現となるが "自分嗜好の濃縮化" とでも言えそうか。つまり、ちょうど小さな子どもたちが単独で "食べ物" を調達するとした時、どうしても自分の好きな物に偏っていくであろうこと、それと同じようなことが、 "情報入手" においても起こりそうだということなのである。
先日、「ネット環境で<「自分嗜好」の人たちが増える世界> ......」(当日誌 2008.08.15)と題して書いたのは、この辺の問題であった。
<このアジェンダ設定の担い手が誰であるべきかを議論するつもりはない。しかし、その主役が従来の媒体の作り手から受け手側に移行する流れは間違いなくあるし、その結果として人も世界も変わっていくだろう。受け手は意識して広く情報を求めようと考えなければ、自分の嗜好に合う情報ばかりを集めてしまう。そんな人たちが増え、価値観の偏った人たちの集まりとなった世界はどんな性格を持つのだろうか。そこには、誰でもが共通に感じられる一様な幸せというものはますます存在しなくなるのだろう。>(日経ネット Plus / 石黒不二代・ネットイヤーグループ社長「『自分嗜好』の人たちが増える世界」 2008-08-15 )
また、「 "サプライズ"、"セレンディピティ" を喪失する時代? ......」(当日誌 2008.08.19)と題して書いたのも同分野の問題であった。
< * セレンディピティの喪失 ...... ウェブではその情報の選択はすべてユーザーにかかっている。......いくつかのウェブサイトでは、自動的に特定方向に誘導していくパーソナライゼーション機能やリコメンデーション機能によって、情報のベクトルはいつしか方向が狭められていく。......一方でそれはセレンディピティ(思いがけないものの発見)をなくし、新たな出会いを失うことにもつながる。あらかじめ予測された範囲のものだけが推奨され、自らの思考も意図せずして規定されていく可能性もある。......>( 森健『グーグル・アマゾン化する社会』より)
人間の判断にとって重要でないわけがない "情報入手" というプロセスにおいて、 "自分嗜好の濃縮化" が起こりやすくなっているのが、現代環境であり、とりわけネット環境だということになれば、その結果についていろいろと吟味してみる必要は十分にありそうだと思われる。
人と人との "コラボレーション(協働)" が難しくなっている、という現象もそうであろうし、また、上述の "森健" 氏は、情報や世論などの、危険な<一極集中>という現象も立ちはだかっていると指摘している...... (2008.08.21)
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