自分は "自転車操業" 的人生を走っているため、まだまだ "現役" で走るほかないのだが、同年輩の友人たちの中には停年退職という "上がり" に至ったものも少なくない。
悠々自適の生活に辿り着き羨ましいと感じないわけでもない。が、その反面、じゃあ、これから何するの? と言ってやりたくもなる。
確かに、趣味の道だ、やり残したことだ、時間がなくてできなかったことだ......、と一見、やりたいことややるべきことが山積しているのかもしれない。そういう者もいないわけではなかろう。
が、実際はそんなに都合良くは行っていないのではなかろうか。別に、 "ひがみ" から言っているのではない。もっとシビァな次元で心配している。
つまり、人が行動するために不可欠な "動機" という問題について懸念しているのである。つつがなく停年退職に辿り着いた者たちというのは、概して、 "素直に働いてきた" 者たちということになるはずである。自分(自我)を出して、アーダコーダと屁理屈を言ってみたり、環境や成り行きに距離をおき、それ以外の人生を想像するようなそんなタイプの人間ならば、三十数年もの長時間、同一のレールの上で我慢できるわけがない、と言えようか。
"素直" で "従順" 、 "生真面目" であり続けたからこそ、所定のエンディング・テープを突き出した胸でさばいたのであろう。とすれば、そんなに短時間で簡単に、三十数年もの長きにわたって全身に染み込ませた "体質" を改変することは難しいのではなかろうか。
とりわけ、その "体質" の内訳を精査するならば、上記の "動機" 、あらゆる行動を駆り立てるところの "動機" という面に関心を向けざるを得ない。
思うに、サラリーマンにとっての主要な "動機" の対象はといえば、一に、 "組織内人間関係" 、二に、 "組織収益性" だと、とりあえずは言えそうか。
ここで、それらを事細かく吟味する余裕はないが、どうもこうしたものに向けられた "動機" というものが、言ってみれば "個人として" 生き抜かざるを得なくなる停年退職後の人生にとってどう機能するのかという点なのである。
まず、良かれ悪しかれ "組織" というものに関係づけられた "動機" というものは、 "個人として" の立場へと外れてしまうと、全然勝手が違うだろう。また、場合によってはほとんど意味を持たないことさえありそうである。極論すれば、サラリーマンは "個人として" よりも、 "名刺の肩書き" で動くことを要請され続けてきたのではなかろうか。
また、冒頭の "趣味の道だ......" に戻るならば、これはサラリーマンだけのことではないのだが、長年 "収益性" という観点で行動することを刷り込まれてきた者たちにとって、 "収益性" とはひとまず無縁な "趣味の道" で生きるというのは、想像するほどラクなことではなさそうに思えるのである。どうしても "実益" を合わせて望みたくなるものだろうし、まして生活の将来不安が煽られている現状ではなおのことなのではなかろうか......。
言い換えれば、仮に "趣味の道" で生きるとしても、これを選択させ、なおかつ持続させて行くためには、かなり強烈な自分なりの "動機" が不可欠ではないかと考えるのである。
多分、この路線で安定しているケースがあるとするならば、サラリーマン生活のかたわらで長年にわたって "趣味の道" をも歩んできたいわゆる "二束のわらじ" 型タイプの人なのではなかろうか。
というようなことで、 "自転車操業" を余儀なくされている自分から見ると、定年退職後の人生というものは、今後想定される自分の苦労に比べても勝るとも劣らない難易度を秘めていそうだと想像するのである。
最近は、しばしば痛感するのであるが、人間にとって大事なことは、苦楽の大きさの問題だけではなく、意外と "動機" の強さ、希薄さという点が重いのであって、どうもこの点を見過ごしがちなのが問題だという気がしている...... (2008.09.03)
コメントする