"どうなるかわからない" ということがあるから、 "希望" が生まれ、人は生きてゆける、と言い切っていいのだろう。いや、 "希望" とはそういう筋合いのものであり、だからこそ、 "どうなるかわからない" という事象を公式的にはパージし続ける現代という時代環境では "希望" が抱きにくくなっているのかもしれない。
"希望" というものはそんな柔(やわ)なものであってはならないとか、もっと確たる裏づけを持ったものでなくてはいけない、とそう言いたい人もいようが、そんな人には困ってしまうけれど、まあそんな人はとりあえず "希望" なんぞにかかわらない方が良さそうだと忠告すべし、か。無いものねだりほど、事態を拗らせることはなさそうだからである。
今日、次のような一文を目にして、意を強めた次第であった。
<...... 希望というものは、ある程度の知性がなければなりたたないが、一方で知りすぎてもいけない。不可視の大きな空白領域をいかに確保し、ふくらませるかが「希望の技術」。......>(「空白をつくることもまた」 茂木健一郎 クオリア日記 2008/09/04 あるシンポジウムでの『脳に学ぶ遇有性の設計原理』というテーマの報告をされたとか。)
茂木健一郎氏は、かつて次のようにも述べていた。
<「偶有性」(どのように変化するか判らないこと)>(「文脈の自由、偶有性の空間。」 茂木健一郎 クオリア日記 2005/08/15 )
< 創造的な人は、だいたいにおいて、偶有性(どうなるかわからないこと)を大切にしている。そのことは、会って話していればピンとくる。一方、教条主義の人はいわば文脈の中の蛙であって、精神を硬くして動こうとしない。>(同上)
同氏が脳科学的見地に立って "創造性" の神秘について探求されている根底には、脳活動にもこの世界自体にも、<どのように変化するか判らないこと>=<「偶有性」>が満ちているという "確信" がしっかりと横たわっているかのようである。
そして同氏が多くの人々、とりわけ庶民から好感を持たれる理由のひとつには、そうした "確信" が、余儀なく "不遇" に甘んじざるを得ない立場の人々に、 "希望" を持つことを勇気づけるからだとも推定されよう。
人間は、 "不幸" に関する "わかり切った道筋" を追認するためだけに生きているのではないはずである。とかく計算過剰な現代環境は、 "わかり切った道筋" と、その裏返しに過ぎない "偽装" をしか持ち札を用意できず、その外側で眠るさまざまな可能性に満ちた「偶有性」を封殺しているかのようである。そして、だからこそ "希望" は語られにくく、抱かれにくくもなっている。
また、あざとい者たちは、その「偶有性」を演出することにまで手を染めることとなり、オリンピックにせよ、総裁選にせよ、しらけることおびただしい......。
「産湯を捨てて、赤子を流す」とのことわざは、人の世の愚かしさをついてあまりあるが、過剰な脳化社会の現代は、「偶有性」を捨てて、 "希望" を流す、というとてつもない愚を冒しているのかもしれない...... (2008.09.04)
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