今日は申し分のない "秋晴れ" である。古くは「重陽の節句(菊の節句)」と呼ばれた日だとかだそうだ。「菊花酒」に因(ちな)んで、芭蕉の句を味わっておこう。
<草の戸や日暮れてくれし菊の酒 芭蕉 >
(平安の昔より、重陽の節句には菊花酒という酒を飲む風習があった。長寿を祝うものであったという。世間で祝われている菊の節句の酒も隠遁の自分には無関係とあきらめていたところ、思いがけなく日暮れになって一樽届いた。うれしくないかといえばそんなことはないが、日暮れて届いたところになお一抹の淋しさがないわけではない。
ここに草の戸は、義仲寺境内の無名庵のこと。日暮れて酒を届けてくれたのは乙州[おとくに 『ひさご』の連衆の一人]であった。 http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kikusake.htm より)
陽射しは強いものの、湿度が40%未満だそうで日陰に入ると涼しくさえある。長らく待ち望んだ爽やかな秋日和である。何か良いことが起こりそうなそんな天候であるが、特にこれといったものは見当たらない。欲張ったことを考えずに、この清々しいそよ風を満喫し、しばし癒されればそれでいいと思うべしか......。
しかし、こんな日和となると、はたと気づかされる思いがするものだ。自分は、何と "世知辛い諸々の事柄" で振り回されているか、ということを。そして、自分のみならず世の中全体が同様の "悪循環" にはまり込み、泥沼で足を取られて右往左往していそうでもある。
"貧すれば鈍す" の、その逆を目指したいところであるに違いない。目先の物事に執着し過ぎる姿勢からは、望ましいものが生まれてきようがなかろう。<あなたとは違うんです!>と気色ばみながらも、ただただ "悪循環" の動きに加速度をつけるくらいが落ちのようである。そんなことはわかっているはずなのに、目先の事柄に拘泥させられ、視野を狭くして "鈍す" の罠に引き込まれている......。
ひょっとしたら、 "急がば回れ" のことわざに隠された妙味に迫ってみる、いや試みてみることがヒントになるのやもしれない...... (2008.09.09)
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