まさか、台風に何らかの意思があって、中国へと向かうと何をされるかわからないとばかりに、日和(ひよ)ったのでもあるまい。多分、大陸の高気圧が、台風を寄せ付けなかったというところなのであろう。
しかしそれにしても、踵(きびす)を返すがごとく日本列島方面へと旋回した時は、思わず、 "なんじゃこれは?!" と感じずにはいられなかった。ちょうど、 "メラミン" 混入の粉ミルク問題で騒がしい時であり、餃子や事故米の "メタミドホス" 問題とてメディアを賑わしていた時でもあった。だから、台風とて、そんなことが日常茶飯に引き起こされる危なっかしいところへは行きたくなかったのかと、そんな想像をしてもあながち無理はないように思えた。
ただ、それじゃあ日本列島は "クリーンな地域" なのかと言えば、残念ながらそんなことはない。毒物の混入に直接手を下すことはないとしても、ブツ(物)を転がしてふところを暖かくすることが大流行となっているのだから、性質が悪い。 "知らぬが仏" という理屈を逆手に取り、それをしゃぶり尽くすかのようにして稼ごうとするのだから始末に負えない。
この "事故米流通" 問題に関する報道の中で、しばしば "性善説" 云々という言葉を耳にした。こうした不祥事、悪事を働く者たちを野放しにして来た関係当局は、監視の制度設計からしてその "性善説" 的発想に立っていたのではないか、というのである。つまり、そこまでの悪事を働く者はいないはずだ、人間は元来そんな悪いことを企むものではない、だから、監視制度とてそこそこでいいわけだ、という姿勢のことを指すらしい。
確かに、人や他人を疑ってかかる "性悪説" 的発想や立場は、心地良いものではなかろう。できれば、人や他人をとことん信じ続ける "性善説" に与(くみ)して上品な素振りでいたいものだとは思う。
だが、大昔のオールド日本ならばまだしも、グローバリズム経済へと大きく舵を切り、海千山千がうじゃうじゃと蠢く市場主義経済へと導いておいて、 "性善説" の発想で設計されたかつての諸制度をそのままにしている、というのが大きな問題なのではないか、とそんなふうに思わざるを得ない。
誤解を恐れずに率直に言えば、グローバリズム経済への道、構造改革の推進、自己責任性の吹聴という路線を選択したということは、 "性善説" に立つまどろみから目を覚まし、 "性悪説" という味気ないアスファルト地面にしっかりと足を踏ん張ろう、ということではなかったのだろうか。この選択に異論はあったけれど、事実だけを確認すればそういうことだったのだと思わざるを得ない。
簡単に例えて言うならば、いわゆる穏やかな人の世で暮らしてきた者たちが、丸腰の格好とスタイルで、何が飛び出すかもしれない山間部の自然地へと誘われるようなものであろう。相互扶助を旨とする里の地域と、獣たちが命を長らえるために鎬を削っている自然界の地域とは、まったく次元の異なった話のはずである。
"性善説" が成り立った空間と、現時点で立ち現れている "性悪説" 的空間との差とは、そうした対比のアナロジーで表現できるものではないかと思えてならない。
とすれば、サファリ・パークへと踏み入る観光客たちが、頑丈なプロテクトで設えられたクルマに乗り込むように、グローバリズム経済社会では良民たちをプロテクトして余りある諸制度が構築されて然るべきなはずであろう。
にもかかわらず、あたかも "エイヤッ" の掛け声や愚かしいパフォーマンスだけで皮切られてしまったことにより、ほとんど必然性に近いかたちで問題が噴出しているのであろう...... (2008.09.19)
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