昨日だかにも、ある地域の小さな男の子が無残にも殺害されたとの事件があっただけに、不吉な印象がぬぐい切れなかった。
"市の広域拡声器による広報" では、これまで認知症にかかったお年寄りの行方がわからないというものが大半であった。そして、ほどなく、無事に保護されたと知らされ皆が胸を撫で下ろすことになる。
今回も無事に保護されることを祈るばかりである。不吉な印象、予感が取り越し苦労であってほしい。
しかし、いつの間に、いたいけな子どもたちが残酷な仕打ちを受けること、そんなことが決してめずらしくない世の中になってしまったのであろうか。残念とか悲しむべきこととかよりも、 "恥ずべき" 社会環境、時代環境である。
少なくとも自分の意思と抵抗力とを持つ大人たちが不遇なことになったりするのは、もちろん無いに越したことはないのだが、まだ直視することができる。
しかし、人の世の何たるかなんぞ了解しようもない幼い子どもたちが、たとえ大人社会に由来する事故であっても、またもちろんのことであるが大人の毒牙によるものであったりすれば、ただただ絶望的な心境とさせられてしまう。
とても理性による推測を許すものではないどころか、感情領域においても想像を絶する水準の出来事としか言いようがない。つまり、人間性というものが破壊された動物の仕業としか表現できないということになる。いや、一般の動物であっても、幼い命を奪うことは相応の根拠がなければ選択されることはないらしい。とすれば、幼児の生命を踏みにじるということは、人間性云々以前の問題であって、生きものとしての水準からも逸脱した "エラー" なのであろう。
今、 "エラー" という無機質的な言葉を選んだのは、もはやこうした事象に対して、人間的価値観やまして倫理的な表現を使ってみたところで、一体何がはじまるのかと戸惑う気持ちがこみ上げているからなのである。
これは考えようによってはかなり危険な発想なのかもしれないとは思う。人間の行う行為に対しては、どこまでも人間的存在にふさわしい "わけ(理由)探し" のスタンスで迫り、そこでトレースされたものを何らかのかたちで一般社会に反映させて行くべきなのかもしれない。その道理はよく了解できる。
しかし、この道理が今、とてつもなく虚しい響きを伴ってしまっている現状もまた痛感せざるを得ないでいる。
こんなことを考えていたら、脳裏をある言葉がふとよぎった。 "緊急避難" という言葉である。これは、一般的に使われる意味に加えて、法的な用語としての意味をも持つ。その意味は、<自分または他人におそいかかる危険を避けるために、やむをえず相手に被害を与える行為>とある。
この異常な時代環境では、あたかも、 "緊急避難" という法的な用語が頻繁に引き合いに出されざるを得ないような "危険" が遍在しているのであろうか...... (2008.09.20)
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