"歯応え" のない物ばかり食べていると......、という現代生活に対する批評は幾度となく聞いたような気がする。顎の筋肉が弱くなるだけでなく......、という警告であったかと思う。
今日は、ふと、 "手応え" という言葉が脳裏に浮かんだ。
どうも、昨今は、日常、口にするものに "歯応え" が無くなっただけでなく、日常生活におけるアクションにおいて "手応え" というものが薄れているのではないか、と唐突に感じたのである。
もちろん、これも自身の昨今の生活に関する、自身の主観でしかない。言ってみれば、そんな気がするというレベルの話でしかない。
個人的生活を、つらつら振り返ってみるとそこかしこに思い当たることが見当たりはする。若い頃のように、求めるものへの "熱烈さ" が確かに薄れたりしているのも理由のひとつなのであろう。よく口にしたり、思い浮かべていた言葉、 "一心不乱" という言葉もすっかりとご無沙汰している感がある。
多分、自身の姿勢側にそうした "熱いもの" が希薄となっていることが、日常的なアクション、行動から "手応え" というものを薄れさせている原因なのだろう、とは推測している。
こうした状態を "歳のせい" にして収まり返ってしまうのもひとつであろうが、勢い、時代環境の問題としてぶち上げてみることもあるいは必要なのかもしれない、という気がしている。
これに関して、ちょっと以前に次のように書いた覚えがある。
<社会的領域への関心の希薄さという点とともに、もう一つ注目させられた点は、 "動機や欲望" という、従来から人間行為の根幹と見られていた側面を、現在の若年世代はかなり不鮮明なものにし始めてはいないか、という点であった。ちなみに指摘されていた点、 "大きな物語" の構図が時代と人々の生き方とを支配していた6~70年代までと、現代の環境とは大きく異なっているという点も、何度でも目を向けてよい点ではないかと思えたものである。
これらの点は、若い世代に限らず、現代人の多くが遭遇している共通した状況でもありそうだからである。犯罪行為に限らず、通常の日常生活においても、自身の "動機や欲望" の姿を見失ったり、捉えそこなったりしている現状が至るところで見られるかもしれないと常々感じさせられている。
この辺から生じる苛立ちは、誰しもが感じているところなのかもしれないのだが、まして、若い世代にとっては、想像以上に苦痛そのものなのかもしれない。まして、時代激変のエア・ポケットを隠れ蓑にするかのような社会問題放置の環境が重なれば、状況は最悪だと目に映る......。>( 2008.08.18 の当日誌より )
個人のいろいろな行動における "手応え" というものは、言い換えれば、 "遣り甲斐" と言ってもいいようだが、いずれにしてもこれらは、 "動機や欲望" あるいは "目標" といった観念装置(?)と一体となってこそ鮮やかなものとなるような気がしている。
"動機や欲望" あるいは "目標" といったものの影が薄ければ、印画紙に焼き付けられるはずの "手応え" 、 "遣り甲斐" というものも "薄っすら" としているのは当然なのかもしれないと思うわけなのである。
もちろん、 "動機や欲望" あるいは "目標" といったものを時代環境が不必要としている、ということであろうはずはない。個人生活、社会生活を問わず、また社会、文化、政治、国内、国外を問わず、解消されなければならない課題や問題は山積している。そこから、 "一心不乱" な姿勢を生じさせる "動機や欲望" 、 "目標" が自覚されても不思議ではない。
だが、どこかで何かが "ミス・リンク" してしまって、うまく関連付けられていないかのような印象も拭えない。
先鋭化するさまざまな領域での課題や問題と、人々が内に秘めて行動へと繋げていく "動機や欲望" あるいは "目標" といったものとの間には、一体どんな "リンク(連結環)" がなければならないのであろうか? <"大きな物語" の構図>が失われた時代にあって、こうした "リンク(連結環)" を提供するものは一体何なのだろうか? 新しい文化か? 新しい思想か? 何なのだろうか...... (2008.09.26)
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