これで、経済不安だ、社会不安だといった重苦しい状況が、人の頭や心を悩ませないならばどんなにか気分の良い季節かと思う。
しかし、残念ながら、心地良い天候とは裏腹に、人間界の出来事はどちらを向いても修羅場のごときありさまだ。どうしてこんなに住み辛く、生き辛い生活環境なってしまったのかと、今さらのように嘆かわしく思ってしまう。
なぜこんな酷い状況となってしまったのかと、考える、いやもちろん厳密に考えられるほどの力は持ち合わせていない。直感的な、荒っぽい視点による感覚的な把握でしかない。
そうすると、 "レバレッジ(梃子)" だとか、 "間接性の拡大" だとか、 "生活圏への侵害" だとかという取り留めのない言葉が浮かんできたりするのである。自分の頭の中でも整理されていないのであるから、人さまには何のことだかわからなくて当然かもしれない。
"レバレッジ(梃子)" という言葉が浮かぶ理由は、現在の一般的経済行為が、現に自身が所有している金額などの範囲を超えて、まるで "梃子" を掛けるかのように "増幅" させられるという環境基盤で展開されているという事実があるからだ。
これは要するに、 "与信" 、つまり一般的には「商取引において取引相手に信用を供与すること」をベースにした経済システムの上で成立する現象だとひとまずは言える。
簡単な例では、ローンを組む場合にも活用されているし、キャッシュカードによるある枠内での融資と返済も然りであろう。そして、株取引での信用取引もこの原理で展開されている。
こうした "与信" 原理に基づく経済活動、現象では、要するに、現時点での自身の許容力以上にリスクテイキングを冒すことが許されるわけである。まさに、小さな手持ち資金で、 "梃子" を掛けるかのように経済行為を進めることが可能となるわけだ。
多分、こうした原理が、経済社会全体の活性化に弾みをつけてきたことは明らかであろう。簡単な話が、ローンという経済制度があるから、より大きな消費行動が可能となり、消費と生産の回転をより速めることにも繋がるわけである。
言うまでもなく、今、念頭に置いているのは、現在世界中の金融経済を修羅場へと引き込んでいる米国金融事情のことなのである。あるいは、その大元にもなっていたサブプライムローン問題(低所得層向け住宅ローン)だと言ってもいい。この問題が、単に経済アナリストたちだけではなく、今、世界中の人びとに暗い影を投げかけているからだ。
別に、この問題に関する専門的な議論をするつもりなんぞではなく、要するに、こうした現象やその問題の根源には、 "与信" = "レバレッジ" という原理が控えていたという点だけを再確認しようとしている。
もちろん、こうした原理が "悪" だというほどに現実離れはしたくない。ただ、こうした原理が常に "付帯条件" を伴わずに一人歩きできるものではない、つまり、相応のリスクを伴うものであり、だからそれをコントロールする別の条件もまた必須だという点をぼやかしたくないのである。
結果論かもしれないが、この辺の事情については、米国の当該問題関係者たちがかなり楽観的過ぎたのではないかという気がしてならないのである。意図的であったとまでは言わないが。
また、今回の米国・サブプライム問題とその周辺のみならず、現代人全般が同種の "リスク" というものに対して、結構、楽観視し過ぎているような気もする。
そして、その傾向に理由を探すとするならば、巨大化した経済現象や社会現象(グローバリズムの国際現象)の "実態・実像" はどんどん遠のき続け、ますます "間接性の拡大" がその代わりをしている......、からなのかもしれないと思ったりするのだ。
気になる問題は、決して現状の金融危機、経済危機だけではないのだが、どうもこうした問題により鋭く現状の矛盾が集中しているかのように見える...... (2008.10.03)
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