小雨が降りそうな気配であったが、 "現場" 周辺には、夜店が二~三十店舗ほど設えられ、近所の人たちがそこそこそんな店に群がったりしていた。先ず先ずの秋祭り風景が作り上げられていた。
実は、この町内の "秋祭り" なのである。家内は、町内会の当番で、子ども御輿周辺の管理ということで、朝一番で現場へ出向き、お役目ごくろうさん、を務めてきていた。
"幾分かの興味" というのは、ほかでもない、 "現場" には町内会の詰め所というかセンターはあるのだけれど、 "神社の社" があるわけではないからなのである。
しかし、だいぶ距離が離れたところにあるとある神社の名称が謳われているし、現に御輿も大人用と子ども用がそれぞれ設けられている。だから、いまひとつ、どういう "システム" となっているのかが了解しづらく、 "妙な興味" が刺激されていたのである。
未だによくはわからないし、まあ、深く詮索するつもりもないのではあるが、祭りの本家である神社がちょいと遠いのと、にもかかわらず、この町内がその神社のいわゆる氏子であることから、町内会のセンターを仮設の神社と見立てて、執り行なっているという仕組みのようである。
そして、本家の神社施設がないままに、祭りの付帯施設、御輿や山車であったり、奉加を記した掲示板とか、そして、香具師たちが仕切る夜店などだけが、とにかく祭り風景をかもし出しているのであった。
まあ、これはこれで悪いわけでもないのだろうとは思う。
そもそも一般的に祭りといったって、神社本体の有難き何かをしっかりと意識して執り行なわれるというよりも、人々は、何とはなしに祭りの雰囲気を楽しんでいるに過ぎないと思われるからである。まして、夜店をを開く香具師たちにとっては、何であろうが人が集まり商売が成り立てばそれでいいに違いなかろう。
だが、何だか釈然としない気分が拭い切れないでいる自分なのである。祭りとはそういうものなのかぁ? 有難き神仏やそれを祀る社という "本質" が希薄なかたちで祭りというものが成立していいのかぁ? とごねるような気分が、自分のどこかに潜んでいるようなのである。
しかし、いろいろな風物も、昨今ではファッション志向やビジネス志向で変容させられ、古くからのいわく、言い伝えやら慣習もあったものではない風潮もなしとはしない情勢である。一々目くじらを立てることなく、雰囲気を味わうことでさりげなく流せばいいのかもしれない...... (2008.10.05)
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