この言葉ですぐに思い起こすのは、何十年も以前に大学院での研究生活をしていた頃のことなのである。
個々人の研究が深まってくると、院生たちは自宅に篭って "集中" するようになるものだ。しかし、確かに "集中" はできるが、時として研究が "行き詰まる" こともままある。そんな場合、個人作業の "集中" と裏腹に、孤立して篭っていることが裏目に出ることもままあるのだ。そのケースに陥ってしまうと、いわゆる "堂々巡り" に嵌まり込んでにっちもさっちも行かない行き詰まりに直面することになる。
研究者たちは、領域を問わず大体こうした経験をするもののようだ。
ある時、そんな "罠" に落ちてもがいている先輩が、研究室に顔を出して印象深い言葉を口にしたのであった。
「最近、どうも思考が "自家中毒" になってしまったようで、研究が暗礁に乗り上げて先に進まない......」
と。
つまり、自身の視点や視界が凝り固まってしまったようで、思索状況を打開するような新たな視点が確保しにくくなっている、というわけなのである。そうした状態を "自家中毒" という奇妙な表現に託したようだったのだ。
こう書くと、そんな場合には、視野を広げるべくより幅広く多くの資料に当たったり、別の観点やアプローチで研究された論文などに接すればいいではないかと考える向きもありそうだ。
だが、そうした対処法が可能な場合とそうでなくなった "重症" のケースとがありそうである。 "自家中毒" という奇妙な表現に相当する場合というのは、言ってみれば "重症" のケースだと言えるのかもしれない。
人の思考における "主観的視点" というものはかなり根深いものと言えそうだ。特に、思考を商売とする研究者たちにあっては尚のことその傾向が強いはずであろう。
童話であったか、ある者がその手で触れると何でもかんでもが石となってしまうという話があったかと思う。ヘンなたとえであるが、それにも似て、研究者が "主観的視点" にこだわりを持ち始めたりすると、何でもかんでもがその "視点" に囚われて見えてしまう、というような事態になりかねないようだ。これこそが、 "自家中毒" だと呼ばれて差し支えない "重症" なのだと思われる。
ところで、こうしたケースは研究者たちの特殊な問題だと見過ごしていていいのかというと、意外とこうしたケースやその "罠" は遍在しているのかもしれない。
以前にここで、「ネット環境で<「自分嗜好」の人たちが増える世界>」( 当日誌 2008.08.15)と題して書いたことがあった。
インターネット環境によって溢れる情報に接する現代のわれわれは、決して偏った情報に傾くはずはない、まして自身の発想が "凝り固まる" ようなことはない、とそう考えられがちである。
しかし、実情はその逆であり、人というのは<自分の嗜好に合う情報ばかりを集めてしまう>傾向が強く、特に、ネット環境に向き合う時のように "孤立した個人" として対応するならば、いつの間にか<自分の嗜好に合う情報ばかりを集めてしまう>ことになり
"自分嗜好の濃縮化" ( 当日誌 08.08.21)を知らず知らずのうちに達成してしまいそうである。それはまさに "自家中毒" 症状への限りない接近だと思えるのである。そして、こうした "罠" に対する距離を確保してくれるのが、生身の人間同士の対話や接触でありそうな気がしている...... (2008.11.04)
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