昨晩、こうした状況を、TVのとあるニュース・ショー番組で観た。その際、学生たちが大変なことはよくわかるとして、自分は採用担当者に目が向いた。
比較的若い担当者が対応している会社が多いと見受けた。それは別に問題ではない。人事畑での経験の長い年配者が、 "人を見る眼" があると思い込み過ぎるのは問題なしとはしない。まして、新しいジャンルの業種であれば、業務内容に精通することなく、ただ "人柄" 云々といった観点からだけの "眼力" ではいかにも心もとない。
また、現時点の若い学生たちの文化なり、行動様式なりが見えにくい年配者だとするならば、ひょっとしたら話にならないとも言えそうだ。
いつの時代でもあったはずではあるが、現在の就職戦線に向かい合う学生たちの "事前トレーニング" は決してハンパではなくなっているようである。
"採用" というイベントを、スポーツ選手たちの "試合" だとするならば、スポーツ選手たちがそれに向けて並々ならぬ訓練を積み上げるように、就職戦線の学生たちだってそうだろうし、 "きわどいパフォーマンス" 訓練にも鎬を削っている。
そして、限りなく演技に接近した "パフォーマンス" を遂行することは、今どきの若い世代にとってはどうということもないようにも見える。
果たして、そうした今風の風潮の中で、とかく "持ち上げられ気味" の社内環境の中でぬくぬくとして来たかもしれない年配管理職たちの、その甘い観察力がどこまで有効か......、と懸念しているのである。
だとしたならば、比較的世代が近い若い担当者の方が "眼力" がありそうだとも言える。応募者たちのよりリアルに近い姿を観察することができそうだからである。
しかし、とは言っても、事は企業の人材を "選別" することなのであって、好感度の高い友人を選ぶといったインフォーマル関係での判断とは一線を画するはずだろう。
こうして考えはじめてみると、事態は複雑さと難易度とをにわかに深めていくようである。
自分も、ひと(他人)のことが言えたがらではないのだが、現在、 "人を見る眼" ほどいい加減になり、メルト・ダウンしてしまっている事柄もめずらしいのではないかと感じている。もともと難易度の高い能力であるに違いなかろう。いや、ことによったら何にも増して難しい問題のひとつだと言えそうな気がしないでもない。
それがどうしてなのかを分析的に考えてみることもおもしろそうである。きっと時代環境のさまざまな特徴が浮かび上がってくるような予感がする。
それはさておき、ひとつだけ挙げてみると、やはり、あの言葉、 "名プレーヤーは、必ずしも名監督に至らず" という言葉に含蓄された点が気になるのである。
シビァな話題としては、オリンピックまではまるで神様のように持ち上げられていたとある野球監督が、その後鳴りを潜めるという事象があった。細かいことはともかく、 "人選" という点で、その際にもこの言葉を思い起こしたものであった。
省略的に書くならば、有効な "人を見る眼" が生まれるためには、 "自己の苦々しい体験を煮詰める坩堝" 、そんなものを収めておく奥行きのある懐が必要なのかもしれない、ということなのである。
所詮、ひと(他人)を評価するという作業は、自分とは異なる正体不明な存在を観察することである。だからどうしても、自身を投影しがちともなろうし、それで簡単に相手を見失うことにつながってもゆくだろう。
要は "客観視" できることなのであろうが、それが簡単に可能なのであれば、 "科学" といったまどろっこしい手順のかたまりの知的分野は不要となろう。 "主観" で生きるほかない人間が、 "客観視" するということはほとんど不可能に近いとさえ言えるのだ。
で、こうした難問を解くために役立つのが、 "自己の苦々しい体験を煮詰める坩堝" なのであり、それを人は "苦労(人)" と呼ぶのではないかと思ったりしている。
"人知れず堆積された苦労" とその "反芻" などの地味なものが、決してマニュアル化し切れるはずのない "人を見る眼" を冴えさせる......。残念ながら、自分自身はその境地に至れないでいるため、あくまでも推測の域をでないが...... (2008.11.25)
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