とかく人間は、孤立して考えると当人は必死で考えているつもりではあってもさにあらず、いわば "同語反復" 的な "堂々巡り" をしているだけの場合が多くなり、ただただどんよりとした感情部分だけがボルテージを上げていくものなのかもしれない。
"他者とともにあって" という状況では、先ず自身の主観的な考えが他者の主観によって確実に相対化される。あわよくば客観化される。その過程は必ずしも心地よいものではないかもしれないが、孤絶した主観というものが "堂々巡り" をするか、病的な変貌に紛れ込む以外に可能性がないのに対して、他者の主観と向き合った自身の主観的考えというものは、具体的な発展経路を探り当てながら、無理のない発展の経路に乗って行くものではなかろうか。孤立、孤絶の怖さと、他者との対話が持つ意味はこんなところにありそうだと思っている。
<埼玉と東京で起きた......>という頻繁なニュース報道は、その中身が陰惨なものであるだけに、聴くことすら忌避したい気分となる。ただ、少しずつ情報が積み重ねられていくと、容疑者に関係づけられていた背後の舞台設定がどんどん小さくなっていく、そんな印象を受ける。
当初、容疑者はそのふてぶてしい様相から、背後に "テロ組織" があってその手先ではないかという憶測すらあったようだ。その際には、容疑者を見る視野は、そうした未知の組織をも想定させるかなり広い視角が必要だったのかもしれない。不謹慎だが、 "舞台" に例えるならば、容疑者の立つ空間は、何十メートルもあるような横広の舞台でなければならなかったかもしれない。
しかし、次第に明らかにされる取調べの事実からすれば、そんな広い舞台はまったく不必要であり、容疑者一人の姿がスポットライトで照らされるような、そんなアングラ劇場くらいの舞台で十分でありそうな気配である。
ところで、 "舞台" なんぞに例えたのは、ひとつは、この種の犯罪がマスメディアや世間という "観客" を大前提とした "劇場型犯罪" だという点がある。容疑者が、 "観客" の反応を度外視していたと考えることは到底不可能なはずである。
また、 "舞台" の大きさを問題にしたのは、 "観客" が取り違えをしてはならないことを強調したいがためである。今回の事件は、決して背後に思想的・政治的組織が潜むような "テロ事件" ではなかろう。 "秋葉原事件" と同種の事件だと見なせる。
では、政治的 "テロ事件" ではないから軽視できるかと言えば、むしろ逆ではないかと思っている。さしあたって "個人発" の事件だと "妙な" 表現しておくと、 "組織発" の事件よりも、むしろ文字通りに神出鬼没のゲリラ的である分、手のつけようがないほど危険度が高いように思えるのである。
しかも、犯罪行為のその動機が、従来の "怨恨" の分類枠に簡単には仕分けできないであろう。容疑者自身は、少年時代に、可愛がっていた犬が処分されてしまった事実を挙げているようであるが、どうなのであろうか? ひょっとしたら、そう解釈されることを容疑者は望んだということに過ぎないのかもしれない。
事実としては、容疑者自身でさえ、犯行に至るロジカルな筋道がトレースできてはいないのではなかろうか。少なくとも、容疑者自身にとってはそれはあまり重要なことではなく、 "誰でもよかった......" 的に募ってしまった破壊的衝動が自身でも手に負えないほどに一人歩きし始めていたのが実情なのかもしれぬ。そして、それと裏腹に、自身の行動結果に、可能な限りインパクトのある "劇場的意味" を持たせたいという願望があったのかもしれない。この辺が、 "秋葉原事件" との類似性を推測させる点なのである。
こうしたことを推理しつつ考えることは、人間が望まずして長期間に渡り孤立、孤絶を続けたり、あるいは "言葉によって" 考えることを長く放棄し続けることの危険という点なのである。
必ずしも、今回のような凶暴な犯行に結びつくとまでは言うつもりはないが、かなり尋常ではない心理状況に人間を追い込んで行くのではなかろうか。
聞く所では、今回の事件を巡ってまたまたネットの掲示板などには過激なことが書かれているともいう。これらは、対話ではなく、言いっ放しをしている点で、言葉を使っていながら "言葉によって" 考えることを忘れている者たちとも言えそうか。
こうして、孤立、孤絶から積極的、生産的に抜け出せないでいる者たちが決して少なくないのが、病的な現代のひとつの特徴なのだろうか...... (2008.11.27)
コメントする