もちろん、同じ "科学" という言葉が使われても、 "自然科学" と "人文科学" や "社会科学" とが同じものだとは見なされていない。その方法論が、自ずからその対象の違いによって異なってくるからである。
"自然科学" は、その対象を "実験" のための環境に閉じ込めて "再現" させたり、 "観察" したりすることが可能である。それに対して、 "社会科学" などは、現実の社会現象を対象とする以上、先ず "実験" とかが不可能であろう。 "実験" のための厳密な "条件設定" などに馴染まないからである。また仮に "条件設定" が可能になったとしても、生身の人々が生きる社会の場を "実験" の材料にするわけには行かない。
何を書こうとしているかというと、先日 "ICカード" システムに関して書いた「技術とは別に<社会システムそのものの普及>が苦手な日本人 ......」(当日誌 2008.11.30)
の内容に関連しており、現代にあっては、科学技術に関する<社会システム>であるとか、<制度>や<制度の仕組み>であるとかのそうした "エンジニアリング" の課題というものが益々重要となってきているのではないか、という点なのである。
というのも、 "自然科学" の延長ないしはその応用としての "自然科学" 的技術の飛躍的発展に対して、それらが適用される人間社会との、そのインターフェイス(関係)となるはずの "社会側での受け入れの仕組み" が、結構なおざりにされている場合が少なくないように思えるからである。それらは<制度>や<制度の仕組み>と言えるものであろうが、広くは<社会システム>と言える場合もあるだろう。
端的な話をするならば、現代の科学技術の典型とも言える "インターネット環境" という科学技術の成果は、現代社会に決定的な影響を及ぼすものでありながら、 "社会側での受け入れの仕組み" については、ほとんどが "追認的"、"泥縄的" であったのが実情であろう。好意的に見れば、 "積み上げ" 的試行錯誤なのだと言えるかもしれない。
そして、今なおそうだし、その結果、これまでにないIT環境犯罪も多発することにもなっている。あの極悪非道な "振り込め詐欺" にしてもこの範疇の問題であろう。
特に目くじらを立てないでも間に合っていた時代もあっただろう。しかし、爆発的な社会的影響力を持つIT技術に基づく現状では、技術と社会なり人々なりとの関係を方向づける<制度>や<制度の仕組み>無くしては、あまりにも予想外の出来事が生じ過ぎるのではなかろうか。
いや、これを<規制>という耳障りの良くない言葉で括ってしまってはいけないだろうと思う。社会が総意によって "制御(コントロール)" すべきであることは間違いない。時の権力が、恣意的に<規制>することとは区別されて良い。
昨日であったか、頻発する<ネット犯罪>から子どもたちを守ろうと、ようやく、小中学生による<ケータイ電話>の携帯に関して制度的な方向性が提起されたようである。登校時には、<原則、携帯禁止>とされるとかである。
こうした方向性に対してはその是非をめぐっていろいろな意見もあろうとは思う。しかし、<ケータイ電話>というIT技術自体は、何ら方向性を持っているわけではないし、もちろんその利用によって社会問題が生じたとしても何ら責任を負うはずもない。むしろ、 "市場主義" という別な条件との関係で、過剰な期待さえ呼び起こしているのが実情だ。
つまり、社会に投じられたIT技術などについては、社会側はいつまでも "ノーコメント" の姿勢で知らん振りをすべきではない、と思うのである。
こうした、技術活用に関する対応のことを<社会システム>であるとか、<制度>や<制度の仕組み>が必要だと言ってみたのである。そしてこれらは、発展して行く科学技術環境時代における技術成果に対応する、欠くべからざるものであり、合わさって "両輪" 的意味を持つのだろうと思われる。
事は、決してIT、インターネットなどの環境だけの問題ではなく、高度な科学技術の成果群に対しては一様に同じことが言えそうである。それらと社会がどういった生産的な関係を形成するのかを、<制度>や<制度の仕組み>、<社会システム>といったインターフェイスとして "エンジニアリング" すべきなのだろう。そして、そうした "エンジニア" もまた必須になると考えられる...... (2008.12.04)
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