彼のことを考えると、やはり沈鬱で寂しい気分とならざるを得ない。彼はきっと、苦しくともまだまだ生き続けていたかったに違いないと思えてくる。
少なくとも、この暮れを自宅に戻って年を越したかったに違いなかろう。奥さんの話では、退院後の自宅治療の段取りについてしっかり確認しておいてくれよ、と言っていたという......。その無念さを思うと哀しい。
そんな彼の "死" を想うことで考えてしまうことは、唐突かもしれないが "生きられているだけで幸いと思うべし" ということかもしれない。
確かに、ろくな時代環境ではないし、多くの人々とともにこの世の苦労と苦痛を十分に共有しているという思いでいっぱいではある。しかしまた、そうした現状、状況を無力ではあっても何とかしようとする抵抗と反発の姿勢が脈打っていることも事実だ。だからこそ感じ続ける "苦悩" なのだということもできる。
要するに、生きている証しとしてのそんな "苦悩" のただ中にいるわけである。もちろん、こんな "苦悩" も無いような、のっぺりとした生や人生を思い浮かべて嘆くことも可能ではある。いや、正直な実感で言えば、そんな "のっぺりとしたラク" を指を咥えて望まないわけでもない。と言うのも、現代という時代はその存立自体のために、そうした "のっぺりとしたラク" が幸せなことなのだと "見え透いた嘘" で塗り固めているような気がしている。したがって、時代の子の一人としては超然とできるものでもない。
しかし、さすがにこの歳となると、そんな "のっぺりとしたラク" が観念的なフィクションでしかないことが薄っすらとわかってくるものだ。別に虚勢を張っているのではなく、そもそも何の苦労や苦悩と無縁な "のっぺりとしたラク" で構成された生というものがあったとしたら、その実在感の無さは退屈でたまらなくなるのではなかろうか。そして、何ら心の振幅を生み出さない退屈さは、きっとそのまま苦痛へと転化するだろう。
そんなことに思いが馳せ、そしてこの世のすべてを静寂へと手渡してしまうところの人の "死" を想う時、なぜだか、 "生きられているだけで幸いと思うべし" という言葉が浮かんでくるのである。さらに言えば、もっともっと死に物狂いの苦悩に接近すべし、ということになるのかもしれないが、そこまで言うと嘘っぽくなりそうでもある。
もう大分以前のことになるが、ある日朝一番に所用があって彼を訪ねたことがあった。その時、自分のスーツ姿を見て彼は突拍子もなく言ったのだった。
「いいねぇ、ビシッとスーツを着込んで出勤するというのは......。もう、私には二度とそんなことはないからね......」
最近、時代環境柄、所々で "去るも地獄、残るも地獄" という言葉を耳にしたりする。これを人生にたとえるならば、 "生きるも地獄" と言えるのかもしれない。
しかし、それでも "生きられているだけで幸いと思うべし" が正解であるに違いなかろう...... (2008.12.10)
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