しかし、確かに寒い。ウォーキングの際にも、家を出た直後には上半身が薄ら寒い気配であった。が、やがて体温が上がってくると気にならなくなる。
相変わらず、川の鯉たちの餌用の "賽の目切り" の食パン持参のウォーキングである。この食パンの耳の "賽の目切り" は幾分手間が掛かっている。事務所の近くの製パン屋にて一包み20円也で買っておいた食パンの耳を、普通、金曜日の夜に "切り捌く" のである。分厚いまな板に出刃包丁という物騒な道具を居間に持ち出し、黙々と処理する。この処理がなければラクなのになぁ、と思うのだが、鯉たちの "嬉々とした様子" を思い浮かべながら、まあいいかと作業するのだ。
そう言えば、先週は降雨で川の状況が変わってしまい、いつも川底が見えなくなるほどに鯉たちが群れていた場所が閑散としていてやや心配していた。
ところが、今朝はまた以前のように、大小さまざまの鯉たちが所狭しと集結しているのが目に入った。何となくホッとしたものであった。
考えてみれば、川の鯉たちに餌をやるような悠長な時代環境ではないはずなのかもしれない。ニュースを賑わしている "派遣切り" 問題によって、今年の年末は "ホームレス" の人たちの数が急増しているという。そして、支援団体による "炊き出し" には300人にも及ぶ行列ができているとも聞く。支援を受ける人たちの中には、その "炊き出し" 一食で一日を我慢している人もいるそうだと聞けば、何ともやるせない気分となる。
同じ "100年に一度" の金融・経済危機にあって、事業を営むことは共通であっても、大手大企業とわれわれのような零細企業とではまったく事情が異なる。
われわれなどは、どちらかと言えば大きなうねりの波間に浮かぶ木の葉のような存在であり、限りなく "働く階層" に近接しているはずに違いない。いや、 "働く階層" に向けられた保障から外されており、何事につけても独立独歩で動かなければならない分、サラリーマンよりも過酷だとさえ言えようか。まあ、それを承知で選んだ道だから愚痴を言うつもりは毛頭ないが......。
ただ、われわれのような、自営業の延長でかない規模の事業体に対して、ここ何年か史上空前の収益を上げ続けた大手大企業はワケが違うと言いたい。しかも、その好景気の時期というのは、 "派遣法改正" による大量の "非正規社員" の群れが輩出された時期でもあったはずである。つまり、想像を絶する "人件費抑制" が "法制度的に!" 設えられたことを決して度外視することができないだろう、ということなのである。
それが、 "国際競争力" を高めるために必要であったとされるワケである。だが、その "国際競争力" という定義は果たして十全なものであったのだろうか?
と言うのも、生産力の基本とも言うべき "労働生産性" の課題があまりにも "近視眼" 的にしか見つめられてこなかったようにしか見受けられないからである。
もし、 "労働生産性" という課題が重視されていたならば、 "非正規社員" に大きく依存する生産組織を選ぶことは近未来的に極めてリスキーであること、それが留意されなければならなかったはずだからである。
従来の日本の生産力・技術力にしても、地味であるがパワーを秘めた中小零細企業群によって支えられていたがゆえという事実があったはずである。また、企業内で培われ、しっかりと継承されてきた職人技的な労働生産性があった事実も忘れてはならないはずだろう。それらが、技術立国日本の独自な基盤ではなかったかと思うわけだ。そして、それらは、代替可能な単なる "作業パワー" で達成されるものではなかろう。まさに、 "正規社員" の立場を設定して総力で "育成" してこそ可能となるはずのものであろう。
が、それら "日本的遺産" の一切を、 "グローバリズム経済" の風潮の中で、まるで "産湯を捨てて赤子を流す" ような愚で推進してきたことにはならないのだろうか。
"派遣切り" 問題によって、当事者たちが死活問題としての苦痛に追い込まれている現状は由々しき社会問題に違いない。
と同時に、大手大企業が、今少し広義の "国際競争力" というものを真の洞察力をもって追求しようとするならば、便利に "非正規社員" に依存するような "近視眼" 的な企業体質を再考しなければならないと思うのだが...... (2008.12.28)
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