今年がどんな年になって行くのかをつぶさに想定できる者はほとんどいないのかもしれない。それほどに "仕掛けられた爆弾" は不気味なほどに破壊力を隠し続けているような気がしてならない。
先ず、何とかなるだろうと高を括ることだけは禁物であるように思える。どちらかと言えば、最悪を想定しつつ取り越し苦労をするくらいが、意外と適切だということになりかねない。歳をとると、ほかのことはさておいても、経験的な実感から物事への予想が案外妥当な範囲で行えるようになる気がしている。
では何をどうするということになるが、今、念頭においていることが二点ある。
その一つは、一昨日も書いたとおりの、 "「ならば、やってやろうじゃないか」というしたたかさ!" であろう。 "したたかさ" という言葉に語弊があるとするならば、 "挑戦的な気概" だと言ってもいい。こうした "気概" をジックリと養いつつ、また持続させることが先ず何よりも必須だと感じたりしている。
とかく、現代人の生活環境にあっては、この辺の部分が、ワケのわからない流れや雰囲気、空気によって抑え込まれているのかもしれない。
また、一身上のことで言えば、 "歳だから......" という先入観に押され気味であったかもしれないと振り返っている。確かに、若い頃のような無理は利かなくなっている。だが逆に、 "年の功" という面だって無くはないわけだ。
二つ目は、やはり何といっても環境の変化自体のスピードを十分に意識することだろう。今回の一連の "危機" 自体が、その影響を破格に拡大・増幅させているのは、震源地の規模の大きさもさることながら、それへの対応の速度に比べて、当該の波及の速度の方が圧倒的に凌駕していたことが否定できそうにない。
この点は、今年に入ってからも鎮まることはなさそうな気がする。たとえてみれば、一度突き動かされた "ドミノ倒し" の、その波及速度が、後は猛スピードで駆け抜けて行くだけなのかもしれない。
求められる対策としては、先ず、これまでのような "行動速度" を改めることなのであろう。思い至ったことを平気で "先送り" するような思考と行動のスタイルはもはや通用しないと言うべきかもしれない。
この辺の事情には、昨年来、ピッタリとするような "反面教師" がいたと言うべきか。現麻生内閣の行動スタイルである。すべてが "後手後手に回り" その対策の有効性が次々に希薄なものに転じているからだ。そして、最終的には、無様なエンディングとなるであろうことは誰もが予想していそうである。
これらに加えて今ひとつ付け足すことがあるとすれば、自分自身の体重を掛けたかたちでの "情報吟味" なのかもしれない。
今朝であったか、とあるラジオ番組で経済評論家の内橋克人氏であったかが話しておられた言葉が耳に残っている。
"とかく政府関係者は、<レトリック>三昧、場合によっては<トリック>を駆使して......" という点であった。
考えてみれば、そうしたことは不思議でも何でもなく、当事者たちにとっては至極当たり前のことなのであろう。問題は、そのたぶらかしのアクションを冷静に見抜く "情報吟味" を、われわれ庶民・国民ができるかどうかなのであるに違いない。
"先の戦争" 中には、軍事政権が、国民を蚊帳の外に置くような "情報操作" を貫徹させたものだったが、現在の "危機" 状況の、その程度は、ほとんど "先の戦争" の状況と並ぶものだと考えてもあながち的外れではないのかもしれない。とすれば、 "危機" の最中にある権力があらん限りの "情報操作" を突き進めようとしていると想定してもこれまた的外れではないはずだと思える。
さて、明日は、早々に事務所に出向き、 "お一人様" の "仕事始め" にしようかと考えている。先ずは "お屠蘇気分" の払拭である。
誰かの "暴言" ではないが、この "危機" の最中、<たらたらと飲んだり食ったり>の正月を続けるのは、甚だ心地よくないと感じる...... (2009.01.01)
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