いろいろと雑事が多いため事務所に出て来ている。
ひと作業が終わり、コーヒーカップを手にしながら窓の外に視線を落とすと、ほぉーと言いたくなる光景が目に入った。
休日姿の熟年男性が、 "茶色の小袋" を胸に抱えて満足そうな顔つきで歩いて出て来たのである。出て来た所は、 "とあるお店" からである。
もったいぶらずに言うと、その "茶色の小袋" には、 "壷焼き芋" が3本(?)ほど収納されているはずであり、 "とあるお店" とは、この事務所の窓からも良く見える "壷焼き芋" 屋さんなのだ。要するに、このお店のお客さんをはじめて目撃したのだった。
この店は一、二ヶ月ほど前に新規開店した模様である。こんな最悪の経済環境で開店したお店だけに、また、何度も書くように、この通りはクルマの往来は激しいものの、歩道を歩く人の姿はめっぽうまばらな状況なので、うまく商売が成り立つのだろうかと、内心気になっていたのである。
店主の姿は時々目に入った。白髪のお年寄りであるが、日焼けしていかにも元気そうである。このお店の "売り" は、 "焼き芋" といっても単なるそれではなく、 "産地直送" だという点や、 "壷焼き" という特殊処理(?)のようであった。
良くはわからないが、想像ではその店主もまた "産地直送(出身)" の方ではないかと思う。何となく、 "都会的" な雰囲気ではなく、九州方面の "地元" の方といった風情を身にまとっているようにお見受けしたからだ。
"都会的" という言葉をあえて使って対比したのは、そのお店の佇まいがやはり "地元" の商店のようなざっくばらんな感じだからかもしれない。いわば "駄菓子屋" さんのような感じなのである。今どきの食品関連ショップのように、斬新な "透明感" と明るさとが溢れたムードのショップではなく、まさに "お店" なのである。
自分なぞは、これはこれでいいとも思ったりする。懐かしがるお客だっているに違いないからだ。だが……。
お店の看板でもある数十センチの高さの "壷" が入口中央に飾られて、それがこのお店の売り物を強調してはいる。しかし、お店の正面と言わずどこと言わず、いたるところに "手書き" の白紙ポスターがベタベタと貼り付けられていて、それらが見る人によっては、煩わしさだけを感じてしまうという嫌いがなくはない。
確かに、店主としては、こんなにも "自慢" できるおいしさなんだよ、と言いたい意気込みは重々わかる。が、ちょっと "多弁" に過ぎるような気がする。どちらかと言えば、今どきのお客さんたちには、えっ? 何々? と思わせる仕掛けだけを講じておいて、あとはお店に入ってもらった際に対話で説明するというくらいがいいのかも……。
お店によるこうしたアピール対策が、どうも今どきのお客さんたちの "都会的" な感性とは、やっぱり食い違っていそうだと思えてならない。
こんな余計な心配などしている暇はなく、実を言えば自分の頭の上の蝿をはらわなければならないのが実情ではある。がそれでも気になったりするのは、かつて "PCショップ" を運営した経緯があるからなのかもしれない。
その時の自分も、やたらに自前ポスター、カラフルな印刷物ではあったが、それらを所構わずベタベタと貼りめぐらしたものだった。まさに、 "多弁" に過ぎた。喜ばれた向きがなかったわけではないにしても、今思えば、 "鬱陶しさ" や "押し付けがましさ" が逆効果だったのであろう。
現在では、顧客側は何によらず商品知識を豊富に持っているから、過剰な説明は不要なはずである。顧客が主として関心を寄せる肝心のポイントの説明に過不足がないこと、それが重要なのかもしれない。
また、どちらかと言えば、メディアを通じた宣伝広告の "機関銃" のような "攻めの宣伝" に辟易としている向きもありそうだ。教育原理ではないが、当人(顧客側)の自主的な姿勢やアプローチを最大限尊重するという宣伝方法が奏功するのではなかろうか。
こんな時期だから、昨今は郵便受けにやたらと "DM" のチラシが投じられているが、そうしたものは果たして元が取れているのだろうか…… (2009.01.24)
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