厳しいご時世である昨今は、 "夢" が消え失せた分、眠って夜に見る "夢" だけがかろうじての救いとなっているのかもしれない。
昨日の新聞社サイトの記事に次のような "ほのぼのとした" 記事があった。
<新一筆啓上賞の入選決定
日本一短い手紙のコンクールで知られる福井県坂井市の「新一筆啓上賞」の入選作が27日、決まった。今回のテーマは「夢」で、6万1283通の応募があり、大賞5点、秀作10点などが選ばれた。
大賞の「妻へ 時々お前の夢を見る。子供たちにも出てやってくれ」は、妻の23回忌をした岩手県奥州市の岩渕正力さん(64)の作品。亡き妻と、妻の夢を見ないという4人の子供への愛情がにじむ。……>( NIKKEI.NET 2009.01.27 )
愛しき者を喪っても、その人が "存在し続けている" という "受けとめ方" には大いに共感が持てるところである。その何よりの "証拠" とも言えるのが、 "夢" にその人が現れるという事実であるのかもしれない。
こうした "受けとめ方" を、取るに足らない他愛ないことだと "貶す" のは簡単なことであろう。だが、そうして "貶す" ことやそうした発想がまかり通る世の中で、人間は実のところ人間らしい幸せを手にすることができるのだろうか。必ずしもそうではないように思える。
人と人とが織り成す人間世界というものは、科学的知識などが支配するかのような狭く限られた範疇を、はるかに超えて広がっているのではなかろうか。むしろ、その "範疇" の外側にこそ、 "人間らしい幸せ" が渦巻いていると言っても言い過ぎにはならないのではないかと妄想することさえある。
自分も昔から "夢" というものには関心が尽きなかった。そして今なお、 "夢" というものの "正体" が気になり続けてもいる。それと言うのも、前述の科学的知識などにおいても、未だ "夢" の "正体" は解明されてはいないからでもある。
まあ、今ここで "夢" の分析についての議論をしようとは思わないけれど、ひとつ考えることは、人が生きて至るところで "獲得" した(してしまった)痕跡のようなものは、実は、覚醒時をベースとする一般的な "記憶" よりも、はるかに膨大なものなのではないかと思う点なのである。
そして、 "夢" の中に限って、そうした "痕跡" までもが再構成されて現れるのではなかろうかと推定するのである。
つまり、人間という生きものが、決して "科学的知識などが支配するかのような狭く限られた範疇" だけを相手にしているのではなく、 "膨大な範疇" で生きていることを暗黙のうちに照らし出しているのが、何あろう "夢" なのではないかと考えたりするのだ。
人生の "三分の一以上" の時間を費やす睡眠を舞台として現れる "夢" を、あだやおろそかにするのはとんでもなくもったいないことのはずである…… (2009.01.28)
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