このところ、日がな一日、技術的作業に腐心し、あっと言う間に一日が過ぎるようだ。そして夕刻が近づくと、この日誌の記入のことが思い起こされ、作業の切れ目を見出さなければとやや焦る。
と言うのも、技術的作業などに埋没していると、正直言ってこの日誌に書くようなことが何も思いつかなくなったりするからである。
大体、技術的な作業というものは、 "近視眼" 的なスタンスを必要とする。つまり、視界を狭めて、対象の細かい関係性を凝視してこそ捗るものだからだ。
それに対して、この日誌に書くようなことというのは、 "鳥瞰" 的に環境を眺めた際に思い浮かぶような類の話だと言えそうである。
まあ、 "近視眼" 的なスタンスで、狭い範疇の技術的談義をしても差し支えないと言えばそうであるが、それは却って難しいことになる。作業日誌的なことであれば、わざわざここに書く必要もない。そんなものを読んだところで、誰も喜びはしないだろう。
いくらかでも、読む方との "共感" とでもいうものを想定する自分としては、そうしたマニア的ともいえそうな狭い範囲の技術的な事柄を題材にしながら、それでいて読者との "共感" を実現しようとなると、それこそ頭を悩ませてしまうわけだ。だから、それは却って難しい、と言うのである。
こんなことを考えると、自分はやはり "古風な常識人" なのだなぁ、と感じる。と言うのは、今どきの若い人たちを見る限り、書くという行為などにおいて、他者との共感を意識しているようには見えないからである。
また、この点は、書くという行為に限られたことでもなさそうである。つまり、他者との関係というものに、何がしか "縛られる" ということから、あっけらかんと自由になり切っているかのようだからだ。
多分、この点は、いろいろな意味において現代の特徴だと言って差し支えないものと思われる。これが良いのかどうかについては議論百出の気配をも感じるが、やはり "危ない" 風潮ではないかと思ってしまう。
土台、人間は "人「間」" というくらいだから、他者との "間"、"関係" を無視することは不可能なはずである。そして、その地平に "共感" というものも生まれたり、生まれなかったりするのであろう。
何を "温い(ぬるい)" ことを言っているのかと思われそうでもあるが、実は、この "共感" というものは決して "情感の触れ合い" といったレベルだけで意味を持つものではないと思う。人にとって欠かすことができない "(事実)認識" という行為に大いに関係していると考えられる。
他者のもとでの認識ということに無関心となるならば、自身による認識のズレやブレはおそらく当然の事態となるのではなかろうか。それが、この時代のさまざまな領域で、日常茶飯のかたちで発生している……。
"近視眼" 的なスタンスで遂行される事柄(専門分化!)が、モザイクのような形態で全体を覆い尽くすような環境では、やはり、結果として "ワケのわからない全体" が生まれてくるのであろうか…… (2009.02.05)
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