今日も昨日に引き続き、一日中技術的作業に "没頭" していた。もちろん、昨日書いたような "近視眼" 的なスタンスによってである。従って、今日もまたこの日誌に何を書くべきか決めないままにこうして "見切り発車" している始末である。
正直言って、こうした "没頭" する時間を過ごすことは、感覚的には決して悪くはないのである。まして、今のような世相にあっては、うかうかと所在無い様子でいたりすると、さして意味があるとも思えない無数の不安材料ばかりが頭といわず、心といわず全身に染み込んできて、落ち着きのない心境に誘い込む。恐らくは、現時点での多くの人たちがそんな境遇に直面しているのではないかと思える。
人は "建設的" にものを考えるべきなのであろう。別な表現をするならば、 "解決可能なこと" を熱意を持って考えるべきなのであり、 "解不能" と思しきことまでを考えるべきではないのかもしれない。と言うのも、それは考えるというのではなく、 "思い煩う" ことでしかなく、内面を萎縮させるだけであり、運がわるければ過剰ストレスゆえの病気にさえなりかねないからだ。
もちろん、だからといって能天気に過ごして成り行き任せでいいというわけでは決してない。強調したい点は、ベストの選択肢がない以上、ベターなものを手堅く目指すべきだろう、ということなのである。
そして、ベターな選択肢の中には、 "思い煩う" ことでただただ時間を浪費したり、また精神的エネルギーを消耗させて、自身のパワーを台無しにしない、という選択も十分にあり得ると考えるのである。
今、この世相の中で多くの人々が苦悩し、そして、往々にしてありがちなのが、 "何をしていいのかわからない" ということなのかもしれない。
しかし、これが良くないのだと思われる。前述のごとく、そうしていると、 "無数の不安材料ばかりが頭といわず、心といわず全身に染み込んで" くるのが落ちだからであり、まさしく "貧すれば鈍す" というワナにはまり込むことになる。
こうしたワナから逃れるためにも、 "没頭" する時間を過ごす、という方策が何としても必要なのだろうと思うのである。 "没頭" するその対象が、客観的に見て将来の展開に役立つのであれば、それは申し分ないことであろう。
そうありたいものであるが、そこまで賢くあることを望まず、とにかく "腑抜け" のように元気を無くすという最悪の事態を避け続ければ、それでいいようにも思える。
シビァな言い方をするならば、現在のような環境では、リアルなテーマは、勝ち抜くことなのではなく、いかに "自滅" しないかということなのではなかろうか。五十歩も百歩も譲った表現となってしまったが、時代環境はそんな過酷な歯を剥いていそうな気配である…… (2009.02.06)
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